今、私たちが生きる日本のリアルを浮き彫りにし、単純な事実の中に複雑な人間の真実を見すえた 「悪人」
吉田修一は芥川賞を受賞した小説家だ。つまり、いわゆる純文学の作家であって、この小説「悪人」も、ジャンルとしてのミステリー小説ではないと思います。
にもかかわらず、純文学と娯楽小説の境界を超えたところで、クライム小説として素晴らしい作品になっていると思います。作者の吉田修一自身にとっても、彼の最高傑作と呼ぶべき作品になっていると思います。
事件は月並みな殺人事件である。福岡県と佐賀県の県境の峠で若い女性が殺される。この峠は、幽霊が出るという噂があるので、ホラー的な方向に進むかと思いきや、むしろ怪談じみた趣向によって、逆にこの殺人事件のありふれた安っぽさが強調されることになる。
被害者の女は保険外交員で、出会い系サイトで複数の男とデートを重ね、売春まがいの行為も抵抗なく行なっていた。何という月並み、何という安っぽさだろう。だが、吉田修一はその月並みを見事に描き上げる。この絵に描いたような安っぽさの中にこそ、今、私たちが生きる日本のリアルがあることを痛感させるのだ。
出会い系サイトでどんな男でも見つけられる。だが、どんな男も自分には不釣り合いな奴ばかり。だから、どんどん男を変える。不満があれば、男をリセットすればいい--------。
そんな安易な幻想を欲しいままにできる空間を、私たちは生きているのだ。そして、その幻想世界の足元に、ぽっかりと深淵が開く。殺人者の登場だ。
だが、この殺人者の、またしても何という月並み、何という安っぽさだろう。男もまた出会い系サイトや風俗の常習者で、しかし、女と違って、幻想を現実と勘違いしてしまう。
「悪人」ではない。だが、自分と他者を正確に見ることができないため、ふとしたはずみで、女は死体に、男は「悪人」に転落するのである。その殺人の耐えがたい軽さにこそ、「悪人」の恐ろしさはあるのだと思います。
犯人はすぐに割れてしまうし、殺人の動機というよりきっかけも、まもなく分ってしまう。それにもかかわらず、ページを繰る手を止められないのは、吉田修一の人間観察の目が鋭く、その観察記録たる文章が生き生きと躍動しているからだ。
設定やトリックのこけおどしとは正反対の、地道なリアリズムで書かれているが、単純な事実の中に複雑な人間の真実を見すえ、圧倒的な読後感を与えてくれる。
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