何時の時代にも存在する、人間失格”堀木”。 - 殺人の門の感想

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殺人の門

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演出
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何時の時代にも存在する、人間失格”堀木”。

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文章力
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ストーリー
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キャラクター
5.0
設定
5.0
演出
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目次

生き上手い人、行き下手な人。

このレビューを書くにあたり、この長編小説をもう一度読み直しましたが、一度目と同じ印象をまた受けました。それは、この作品”殺人の門”は太宰治の”人間失格”にどこか似通ったものがあるな・・・という点です。何故か?この作品も人間失格も、根本的には生き上手い人、そして生き下手な人が物語の根幹である事です。主人公の田島と、人間失格の葉蔵は、キャラクターも性格も違います。共通点はお金持ちの家の出自である事、そしてその境遇を当然の事をして享受してきた点のみで、自分が人から恨まれる要素を持っていると気がつかない、典型的な恵まれた環境に育ったという事です。この作品の類似点は、そういう主人公のすぐ近くにいる人物、殺人の門では倉持、人間失格では堀木です。こちらはかなり似たキャラクター、性格で、出自も貧しい家に育ったという点で同じです。この殺人の門を読んで真っ先に思った事は「ああ、倉持は現代版・堀木だな・・・。」です。堀木にしろ、倉持にしろ、時代は変わってもこういうずる賢い奴というのは、何時の世にも、小説の中だけじゃなく、実生活にも存在します。そして、こういう人物が世の中を、周囲の人を、不幸に巻き込んでゆく。それなのに、変に人を寄せ付ける、妙な人間的魅力があり、それがこういう人物をますます助長させてしまう長いお話の最期まで騙された巧みなストーリー。

最後の最後まで倉持に騙される、巧みなスト―リー。

その現代版堀木こと、倉持ですが、上記した理由から、読みながら嫌悪感で一杯になりながらも、どうして田島はこう何度もバカみたいに騙されるのだろうと思っても、読みながら、自分自身も抵抗しつつも騙されていっているんですね。正直、最後の最後まで人を騙して、不幸のどん底に叩きのめして、なおかつ人に好かれてるキャラというのは到底受け入れがたいのに、何となく心のどこかで受け入れている。本当の悪党というのはこういう人の事をいうんだな・・・と思いました。この小説では、ネズミ講~豊田商事詐欺商法~胡散臭い経営コンサルタントという、ちょっと理性を持てば、騙される方がおかしいのではないか?という詐欺師が絡んだインチキ商売が描かれていますが、こういうインチキ商売が決してこの世から姿を消さない理由の一つに、この本当の悪党の存在があるからだろうと思います。悪党面の悪党は所詮小悪党で、本当の悪党は小悪党の仮面を被った善良に見せかけた人物、この倉持のような人物です。で、そういう人物は人を騙す為のアメとムチの使い方、窮地に追い込ませた相手に親切ぶって手を差し伸べたりする。こんな人間が自分の周囲にいなくて本当に良かったと思います。東野圭吾さんのこの本当の悪党の描き方は本当に完璧だと思います。最後の最後まで騙されましたし、最後の最後までこの悪党の描き方、読者の心に残す印象など、これ以上無い位に上手い。

一線を超える、超えない。

世間では今、不倫の一線を超える、超えない、が話題となっていますが、この一線を超えるというのは、本来はもっと重大なもので、殺人などではないかと思います。この殺人というのは正に、人間が犯す罪のもっとも大きなものである事は事実で、殺人者以外で死刑になる人がいないという点でも、それは正しいのだと思います。勿論、この倉持のように、詐欺の被害者を自殺に追い込んでしまう場合も間接的な殺人で、個人的にはこっちの方がむしろ罪が重いのだと思いますが・・・。で、個人的にはこの小説は殆ど倉持主人公的なものでしたが、本来の物語の根幹はこの殺人の一線を超える人、超えない人、あるいは、何がその一線を超えさせるのか?というものです。世界の人口に対して、実際殺人を犯してしまう人は、絶対に少ない。日々、色んな殺人事件が起き、物凄く多発しているように見えても、実際はそんな事をしてしまう人は一握りなのです。この作品の上手さのもう一つは、結局、殺人の一線を超える事がなかった田島という一平凡な人物の描写でもあります。正直、実際に殺人の衝動になりそうな事が彼の人生にはこれだけ、これでもか!という位に続くのに、最後の最後まで衝動の波は満ちたり、引いたりを繰り返します。この最後の最後に、植物状態になった倉持の首を絞める訳ですが、止めに入る人が沢山周囲にいる状態から、「おれは殺人の門を超えたのだろうかー。」というラストの台詞を迎えても、あくまで想像ですが、私は田島は倉持を殺さなかった、あるいは殺せなかった、と読後思います。

一般市民な田島。

この一般市民な田島に、何があろうと殺人の一線を越えて欲しく無かった・・・という気持ちがどこかにあり、また、殺させてあげたかったという気持ちもあり、でも、これで刑務所に入ったり、死刑になったりしたら、それこそ元の木阿弥で、結局、倉持の勝ちじゃないか・・・と思ったり、こんなに色んな事を考えながら読んだ小説もそうはありません。人間の実社会のありとあらゆる屈託がすべて入ったような内容で、東野圭吾さんの小説にはこういうとことん考えさせられる小説は多いのですが、実際、小悪党のような悪党の倉持、一般市民な田島、悪意を持った第三者、悪意を持たない第三者など、ごくごく本当に自分の身近にいそうで、ありそうな、おこりそうな、この物凄いリアリティーのあるストーリーは実際、凄いと思います。さすが東野圭吾さんというべきか。このリアリティーのあるスト―リーをプロフェッショナルな推理小説として仕上げているその力量も、ずっと一線でベストセラー作家である事の理由の裏付けのように感じます。最近、死刑廃止論者の意見が声高に叫ばれています。特にヨーロッパでは、特に若者の間では、その意見が顕著だと思います。私自身は死刑は廃止すべきではないと思いますが、でも、冤罪や殺人という行為を全部ひとまとめに語る事に違和感があるのも事実です。そういった事も改めて、今回、この小説を読んで考えた点です。田島が倉持を殺しても、通りすがりの何の関係を無い人を殺した人も、罪は同じなのだろうか?と。当然、人を殺すという行為は同じなのだからと、どっちも殺人には変わりないのですが。

殺人の裏にあるもの。

随分前ですが、某TV番組である評論家の人が、ある男が小学校にナイフを持って押し入り、沢山の罪のない子供を殺傷した事件で、「彼を死刑にすべきではない。彼を生かして、彼からどういう背景で、どういう心理構造から殺人に走ったのか、何が彼を殺人に走らせたのか?という事を研究する材料にすべきだ。」というもので、その評論家はその殺人犯にちょっと同情も示していた点もあり、スタジオにいる全員が「人を殺したら、自分の命で償うべきだ!」と強く反発し、私自身も、こんな殺人者はこの世にいるべきではないと思いました。でも、今、この殺人の門を読み返しながら、あの時の、あの討論が、頭の中をぐるぐると回ります。あれから裁判員制度も導入されましたが、裁判員制度が導入されて、司法がどう変わったのか?それとも何も変わらなかったのか?私にはまだ分かりませんし、また、それが分かるにはもっと長い月日が必要だと思います。世の中の何が正しくて、何が正しくないのか、騙される方が悪いのか、騙す方が悪いのか、どちらも悪いのか?この作品はそんなすべてを今、また新たに私自身に投げかけているような気がします。

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