社会という残酷 そこから抜け出す方法はあるか?
容姿という残酷
本作にはブスという言葉が数百回出てくる。醜い、とか、ばけもの、という言葉すらある。
それも人間の女の子、しかもヒロインであるきりこを表すために、この言葉が使われる。
容赦無い小説である。
かなり勇気がいる表現だと思う。
今の世の中は、このような言葉が使われない方向に動いている。テレビやラジオでは放送禁止用語として厳重注意の箱に入れて扱うし、一般社会でも直接的にこのような言葉を使う人はデリカシーが無い人と思われてしまう。
では、このような偏見が無くなったのか?
そうではない。
それらは単に表に出なくなっただけだ。依然として人は容姿で他人を判断する。
顔かたち、スタイルなどのその人の責任下にないもので差別したり、衣服や装飾品を見てその人の社会的位置づけを確認する。
容姿が美しく、服装に気を配って身ぎれいにしている人は、安心だと判断して近寄る。
それが異性であれば愛の対象の上位にランク付けする。
学校、会社、どの集団であってもそこには確実にそのようなヒエラルキーがある。
端的に言えば美しい女性は、金、愛情、社会的あらゆるチャンスにありつく機会が多く、ぶすにはそれは圧倒的に少ない。それは残酷なまでに厳格な事実だ。
多くの人が人間の価値は外見だけでは決まらない、と言う。
しかし悪いより良いに越したことはない、と誰もが思っている。
かわいい女の子とぶすな女の子が平等だ、と心から信じられる人はおそらく皆無であろう。
きりこを見た人は、自分があのような姿でなくて良かった、と思う。
それが残酷の正体だ。
西加奈子はここに容赦なくこの残酷に切り込む。
人間社会の残酷は容姿だけではない。事項では別の残酷も確認しよう。
社会から脱落する残酷
本作は三歳のちせちゃんの将来の職業がAV女優と予告し、ゆうだい君はゲイになるし、ともひこ君は女性に暴力をふるう大人になると書く。新興宗教の深みにはまる元田さん、精神を病んで入院するさえちゃん、小学生の時はモテモテだったこうた君は暴力団構成員にまで身を落とす、と語る。
そのような将来を簡単に書き綴り、西加奈子は読者の不安をあおる
破壊される全員の将来、救いはあるのか?
こんなことにならないように普通の壁の中で生きていこうね、という事を言いたいのだろうか?
人生なんてこんなもんよ、とシニカルに書き上げるのが本作のゴールなのか、そう思わせる前半と中盤。
しかし、西加奈子はそんな程度の小説は書かない。
彼らは確かに、一旦、落伍する。
トラブルの気配を孕みつつもなんとか少年期を脱するが、青年期は上記の予告の通り、誰もが落ち込む。もちろんそれぞれに人間としての落ち度もあるのだが、それだけではない、抗いがたい社会の残酷さに押し流されていくのだ。
容姿、頭脳、家族構成、暴力、偏見、固定観念、それらに立ち向かう方法はあるのか?
西加奈子はパンドラの箱のようにそれらをぶちまけて、収拾不可能な地獄絵図を書いている。それが陰惨にならないように猫の視点を使っているが、本作が描く世界はどこまでも苦しい。
そして、そこに立ち向かうのは猫的生き方、という奥の手を出す。
西加奈子の必殺! 猫だのみ!
きりこの誕生から順を追って書き記されているので、前半は児童文学のようでもある。
そのきりこの成長に合わせて、ラムセス2世という天才猫の成長と、きりことの関係性も丁寧に書かれる。
そして、上記の解決不能と思われる問題を一気に猫的生き方で解決する。
猫たちは、存在意義というものを知らなかった。無駄なロジックを知らず、言い訳も嘘も偽りも虚栄も強欲も知らなかった。(中略)猫たちは、ただそこにいた。
言うなればあるがままということだ。
猫の言葉(?)を借りなくてもそんな考え方は以前からあるじゃないか、誰もがそう思うだろう。実際におそらく仏陀が示した無や空にも通じる考えである。
しかし考え方は昔からあっても実践できる人は非常に少ない。
そもそもそんなことが誰でもできるのであれば、上記のように没落する人が出たりはしない。
それを解決するのは既知の常識ではない。
青春期をぶすという心無い言葉で奪われたきりこと、その予知夢を見る能力、そして天才猫ラムセス2世の組み合わせという、あほくさいとも言える設定で敢えて冗談に例えながら、西加奈子はこの夢物語を設定した。
猫というアイテム
古来、人が猫にもつイメージは、自由、孤高、わがまま、きまぐれ、女性的、怪しげ、など様々ある。
物語に登場する場合は、日本人にとっては古くは化け猫などの怪しげなものが多いようだが、最近は越谷オサムの小説「陽だまりの彼女」のように女性を象徴する作品が多いかもしれない。
とはいえ、猫が出る小説として日本国内で最も有名なのは、夏目漱石の「吾輩は猫である」だろう。
猫の視線で社会をシニカルに見つめる作風やコミカルなタッチは、本作に似ていなくもない。
しかし、本作では猫は完全に人間より上の存在として描かれている。
西加奈子自身の作品で「しずく」という短編も猫の視点を大事にしている。しかしそこでは猫たちは傍観者であり、人間に癒しは与えるものの導きはしない。
本作の猫は超越者である。
現実社会での猫という存在は、前述した「ただそこにいる」もので、人間から見るとあまり何も考えない、可愛いだけの生き物と認識されていることが多い。
だが、ラムセス2世はそのような猫の生き方こそが人間を超越したものであると語る。
こうすれば、こう考えれば心が楽になる、より良く生きられる、そんな自己啓発本は無限にある。だがわかっていてもできないのが人間でもある。
変わりたい、と思って自己啓発本を手に取る人は、実は自分は変われないことを知っている。一時の慰めと、もしかしたら起こるかもしれない奇跡をその本に求めている。
だがもちろん奇跡はおきない。書いている人間だって社会の残酷から逃げきれてはいないのだから、その著作にそんな力はありはしない。
本書はその規範となるのは自己啓発本ではなく、あなたの身近にいる猫だ、と語る。
人間だからなかなかできない、という言い訳は一旦捨てなさい。みんなが下に見ている猫はそんなことは容易に超越しているんだから、それ以上と偉そうにふるまっている人間にできないはずはないでしょう、それがこの本のスタンスなのだ。
絶対超越者=神が言えば、人々はそれを信じるだろうか。神が全能であることは当然である。
ただ現代人にとって神は架空の概念であり、遠い存在でしかない。
だからこそ、身近にいて、ただそこにいる猫こそが、人間が現在苦しんでいることを、既に解決しているんだよ、と認識することが救いになるのだ。
ただ生きていくということ
ここまで書いてきたように、人間は常に社会の残酷さの中に生きている。
いかに心根が優しかろうとぶすはぶすとして惨めに生きるしかない。
きりこはたまたま両親の太陽のような愛と、ラムセス2世という自己を肯定してくれる相棒と、予知夢という能力を得たが故に、心折れずに生きることが出来た。
そしてそのきりこによって、ちさちゃんも救われた。更にその二人がベースになっていろんな人を救っていく。
それはただの慰めではない。ぶすであろうが、犯罪歴があろうが、常軌を逸したセックス好きであろうが、そのままに生きること、そのような事を受け入れることが、社会の残酷を薄めていく方法なのだ。
そしてそれはたった一人が起点になることで作っていける。
だから、今社会の残酷に押しつぶされそうなあなた自身が起点になろう、この本はそういう事を言っているのだ。
いや、そんなことはできない、言っている事はわかるけど難し過ぎる、と悩めるあなたは言うだろう。
私は答える。難しい、というから難しい。難しく考えるから難しいのだ。
ただ、そこら辺にいる猫のように、ただ生きてただ死ぬこと、たったそれだけだよ。
本書は全ての人にそのように優しく救いを差し伸べている。
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