2人の女性の出会いから別れまで
絶対的なビジュアル
まずこの映画を観ようと思ったのは上映予定の映画のポスターをたまたま見つけてだったのだが、その画に魅せられた。以前から綺麗だとは思っていたけれど、エマ役のレア・セドゥの青い髪の色が印象的すぎてこれは絶対に観ようと思ったのである。なんなんだ。これは惚れてしまう。彼女の人気のような顔と髪の青、高すぎない声も全てが中性的なエマに合っていたと思う。アデル役のアデル・エグザルコプロスも思春期の少女が女性になる過程を経るにつれて役の中で艶が出ていて2人の異なる美しさが見ていて飽きなかった。ベッドシーンも性的というよりも絵画や彫刻を見るような芸術的な感じがした。綺麗で尚且つリアルな美しさの2人だからこそのシーンだと思った。
対称的な2人
ハッピーエンドではないこの2人はそれでもお互いを思い合っていたのに、何故別れてしまったんだろう。アデルとエマは、同じ女性で同じ国にいても、環境や考え方はまるで対称的なのだ。それがよく表れいると思ったのは、家族での食事のシーン。アデルの家では家庭的なトマトパスタと赤ワインで、エマの家ではシーフードと白ワイン。食事中の会話もエマの家では知性溢れるようなもの。そこでまずアデルとエマの身を置く世界が違うって思わされた。
そしてアデルは文学が好きで才能もあるのに、親に言われた通りに就職の道を選ぶ。エマは自分のやりたい芸術家としての夢を追い続ける。そんな所も対称的な気がする。こうやって2人の感情以外の所で交わりが無いのが凄く印象的だった。見た目も環境も正反対という感じに思えた。
原作との違い
アデル、ブルーは熱い色は原作の漫画がある。原作では主人公のアデルの名前はクレモンティーヌなのだが、映画では演じる女優の本名なのだ。それが演技っぽさのない表情や仕草を生んだのだろうか。演技っぽくないと思ったのはその他にも、アデルの咀嚼する音だったり食べ方にも感じた。普通ならあんな風に食べたり音を出すのは良くない事なのだが、あえてそのままを写すというか、自然体でいる所をカメラが写したみたいな感覚だった。映画なのだけど、服装も髪も化粧も自然体。むしろもう少し気を使ってもいいのではないかと思うくらいだ。エマは確かに化粧もしていないし髪も青く染めているくらいで特別何かしているわけではないけど、洗練されているように見えてくる。それは内面からでる雰囲気もあるかもしれない。2人の関係が終わりを告げたのは、もちろん直接的に起こった事柄もあるだろうがそれ以外の環境や将来、生活に対しての考え方が違ったことが多かったのだろうな。原作との違いは名前以外にもあって、アデル(クレモンティーヌ)は原作ではエマと別れた後に薬物によって死んでしまう。けれど映画ではそうではなく、芸術家として成功したエマの個展へと赴き、そこで1人の男性と出会う。これは決定的なシーンがあったわけじゃないが、あのラストのあとにまた再会して欲しいと願ってしまう。悲しい別れがあるが原作よりも観た人によってその後の希望が望めるラストだった。
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