一度出会ったら、人は人をうしなわない。たとえばあのひとと一緒にいることはできなくても、あのひとがここにいたらと想像することはできる。
野島葉子
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神様のボートは、小説新潮にて、1998年1月号から1999年3月号まで連載された、江國香織による小説である。 この作品は、親の反対を押しのけるように年上男性と結婚をした主人公である野島葉子が、ダブル不倫をし、その男性との間に生まれた娘である草子との長い年月を綴った物語である。葉子が骨ごと解けるような恋をした不倫相手であり、草子の父親でもある沢木哲哉が、葉子の前から立ち去る前に残した「葉子が何処にいても必ず見つけ出す」という言葉による約束を頑なに信じ続ける母親と、そんな母親とともに住まいを転々としながら生き、成長していく娘との日々が、家族や愛など様々な視点とともに展開されるストーリーとなっている。 第十三回山本周五郎賞の候補作品に選ばれるなど高い評価を得ているほか、2013年3月には、NHKのBSプレミアムにて、主役の野島葉子を宮沢りえが、葉子が想い続ける沢木役を藤木直人が演じ、ドラマ化もされている。
ラストの解釈?そこは個々でやってください本作について語られるとき、一般読者サイトでは必ずと言っていいほどラストで葉子がどうなったのか、という点にフォーカスが置かれる。「あのひと」に会えたのか、会えなかったのか、生きているのか死んでいるのか。読んだ人間は当然考えるだろうが、クイズでもないし、結論を出すべきなら作者も書いているはずで、書かれていないという事はどうでもいいことなのだ、と私は思う。書き手側、江國香織にとってはあのシーンでこの作品は終わっているのだ。語るべきはそこではない、と私は思う。今回私が語りたいのは「あとがき」についてだ。新潮社の文庫では物語終了直後に作者のあとがきがついている。このあとがきの「狂気の物語」とか「私の書いたもののうち、いちばん危険な小説」とかの表現がまた長年の論争を呼んでいる。この解釈自体も私はどうでもいいと思っている。言いたいのは、この結末を放置するタイプ...この感想を読む
タイトルがおしゃれで気になったので買った。愛情とはなんぞや?って考えてしまうような内容だった。昔に愛していた男をいまもあいしつづける母親。その男との間に生まれた子どもをつれてる。私は母親のくせに娘のために生きずに、男を待つっていう価値観が受け入れられなくてもやっとした。最後はハッピーな感じで終わるので明るい気持ちになれる。娘は他の作品の登場人物と血縁関係にあるらしい。その作品も読んだけど、ぜんぜんそんなことは記憶になかった。それをふまえてもう一度よみかえしたいなと思った。この作者の文章はやわらかいようでしゃきっとしていて好きだなと思った。
「神様はボートなんか持ってないやろ」タイトルを見たとき、「ふと」思いました。シンプルで不可思議なタイトルでよくあるパターンです。内容は、なにか人間関係がキリキリした狂気的で愛情があふれすぎていました。登場人物の一人は愛情が深すぎて変な方向へ走ってしまう。この作品が小説にありがちな「あるある」が多く盛り込まれていて、面白い反面、目新しさがないようなものでした。だがしかーし、「どうしようもなく人を好きになってしまう」というある登場人物の性格は自分自身と似ているところがあり、すごく好きです。個人的にあまり好きではない部分と大好きな部分が混合した作品でした。
野島葉子
ひたすらに恋人(草子の父)を待つ葉子の言葉。
桃井先生
主人公が過去を思い出している、回想シーン
野島葉子
娘が引っ越しを嫌がり泣いた時に彼女に言った言葉