違う時代を違う目で見るとわかること
単純なタイムスリップものかと思いきや…
主人公のお気楽フリーター健太が、サーフィンのときに波に飲まれて溺れ、気づくと「日本昔話」にでてくるようなおばあちゃんに看病されていて、そこは1944年の戦時中だった。そして健太が溺れたその同じ時間、1944年の若者吾一も飛行中に墜落し死に掛ける。そうしてお互いがお互いの時代にスリップしてしまうという、イメージ的にはコメディ風の始まり方だった。
戦時中にスリップしてしまった現代の若者健太は、初めはロケかなにかかと軽く考えていたものの、事態は深刻だということに気づくのに時間はかからなかった。健太の軽くいかにもその辺の若者風なその雰囲気は、戦時中にはいかに目立つものかということがよくわかる。そして現代である2001年では吾一が奮闘していた。入れ替わったときの驚きの境地は吾一のほうが上だと思う。見るもの全てが見たことないもので、食べるもの全てが食べたことのない世界に放りこまれたのだから。
戦時中に生きた若者だから吾一は年以上に落ち着いている。そのしゃべり方、立ち居振る舞い。現代の若者とは大違いどころか、健太の父親よりもしっかりしている。この二人の目線が冒頭からしっかり表現されているので設定が分かりにくいということもなく、どんどん話に引き込まれた。
現代の日本と終戦まぎわの日本の対比
当時の日本の厳しさをこのように活字で見ると、映像とはまた違った悲壮さがある。その反面、現代日本にはない美しいものも多くある。この物語では戦争の厳しさや苦しさだけでなく、その鮮やかな原日本とも言うような光景、星や月の大きさ、人々の心の清らかさなど、そういったことも同じように描かれている。そういう場面を読むと、彼らは決して苦しいのを我慢しているだけの人生ではなかったことが感じられた。
そしてそれと対照的に、現代の騒々しさもこれでも書かれている。舞台が東京だからかもしれないが音の洪水、人の声の大きさ。音に酔うということはこういうことかと思うくらい、様々な音と色。吾一の生きた時代にはありえない豪華な料理の残飯、意味のない言葉、犬に着せた贅沢な服。
そして現代に来た吾一がしぼりだすように言った「我々はこんなものを守るために戦ったのか」というセリフ。あれはこの物語を代表する重いセリフだと思う。
健太と吾一
「根拠なしポジティブ」と恋人ミナミに言われるように、現代に生きる健太は明るく楽観主義で少々おバカである。その彼が究極の上下関係が確立されている世界に行くのだから、波乱が起きない訳がない。それは脱走者として手荒く扱われていくところから想像できる。あのバッターと呼ばれる「精神注入棒」を使った上官と言う名を借りたサディスティックな懲罰。権力をかさに着て部下たちを決して思いやることのないヤマグチは常に健太につらく当たる。しかし現代のヤマグチにすぐ切れた健太もここでは軽はずみな行動が死に直結していることを直感している。だからこそ状況を見ながら同年齢たちの立ち居振る舞いなどを真似し、周囲にうまく馴染もうという意外にも思えた驚異的な環境適応能力を見せた。この如才なさは現代の健太の軽くておバカな様子からはあまり想像できない。しかし吾一と何もかもが瓜二つという健太は健太なりに、吾一の持っている賢明さを持っていたのだろう。
また彼の楽観主義的な言動は、暗くなりがちな周囲を確実に明るいものにしている。いつ命がなくなるかわからない張り詰めた状況の中、戦場にいる若者にとって健太のような存在はどれほど救いになったかわからない。だからこそ上官ヤマグチはことさら健太につらく当たったのだと思う。当然ながらヤマグチには健太のような信頼も人望もないのだから。
一方吾一はいかにも戦時中生まれで兵隊として育っているので、言葉使いも健太の父親以上にしっかりしている。それは現代に生きる周囲のものたち(健太の父親、母親、ミナミ)からしたら変わって見えるのだけど、そこは荻原浩ならではのシリアスになればなるほどコメディチックになる絶妙な描写で、吾一がそれなりに現代の文化や食べ物に馴染んでいく様がよくわかる。
この二人の対比によってそれぞれ生きた時代の対比がうまく出来ている。ただ現代の便利さ、戦時中の暗さだけを書き連ねるのではなく、このような若者二人の目を通してそれぞれの時代を見ることで、それ以上の想像ができる。それは若者たちが置かれている周囲の状況も同時に情報として入ってくるので、臨場感に溢れリアリティも成立している。
このような描写を生き生きとうまく書けるのはいかにも荻原浩らしいと感じたところだ。
タイムスリップものの魅力がたくさん
タイムスリップものの魅力のひとつは名作「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズのように、身内の若い頃に出会うという設定だと思う。この物語もそこはちゃんと書いてくれていて、健太はミナミの祖母、祖父、自身の祖父に出会う。ミナミの祖父、鴨志田とは共に“回天”(たまたまテレビでこの“回天”の特集をしていてその形を見たことがあった。その魚雷そのものも形、空間の狭さ、そしてその目的がひとつしかないことに鳥肌が立った)のパイロットになっているが、未来でミナミが生まれていることを思うと彼は死なないという事実に、健太は安心している(結果健太が助ける形になったからこそ鴨志田が生き延びたのだが)。そして溺れている男を助けたらそれは健太の祖父だったこと。これも健太が助けなければ健太はこの場から消滅していたのだろうか。ミナミの祖母がひそかに健太に恋していた様子の描写。この奥ゆかしさと一途さが彼女の美貌と相まってなんとも切なく美しい。でもここで健太とどうにかなっていたらまた未来がややこしくなっているわけで、結局彼女の美しさに惹かれながらも鴨志田となんとかくっつけようとして苦戦しているところなど、まさに「バック・トゥ・ザ・フューチャー」だ。このようないかにもタイムスリップならではの魅力もこの物語にはたくさん描かれているのもうれしいところだ。
あと見事な伏線の回収もある。ミナミが自分がもてるんだと言うことを冗談めかしてケンタ(健太に入れ替わった吾一を“ケンタ”と表記してくれているのは、あくまで違う健太だということを明記しているようだし、また分かりやすいという具体的なメリットもあり良かった。でも吾一になった健太は“ゴイチ”表記はない。あくまで彼が主人公だからだろうか)に、「時々知らないおじいさんに見つめられている」というセリフ。これは生き延びた吾一か健太かどちらなのか最後までわからないのだけど、見事に回収されている。その気持ちよさも魅力のひとつだ。
切ないラストシーン
過去に戻るべく沖縄に出かけたケンタと何も知らないミナミだけど、ケンタはひたすら海で潜水を繰り返す。どこかに時空の穴があるのだというばかりに。その必死さと、本当は戻りたくないという気持ちが交差し、この場面は少しつらいところだった。その反面、沖縄の海の美しさが対照的に描写され、その美しさを実感できればできるほどケンタの切なさもそれに比例して増していくように思われた。
戦争が終わった玉音放送があったにもかかわらず、上官の無茶な命令のため(ここは本当に腹が立った。戦争が終わったのにまだそのようなことを言う人間が信じられなかった。それなら自分で行けばいいと強く思った。しかし当時このような人間は珍しくなかったのだろう。そしてきっと彼らは現代まで長く生きたに違いない)、そして鴨志田を救うために“回天”に乗ってしまった健太は、アメリカ戦艦に命中させたのだろうか、気づくと“回天”のハッチから放り出されており、今まさに溺れようとしていた。そして同じ海ではケンタも水着がサンゴにひっかかり死に瀕していた。ここで初めて分かったのは、ケンタも健太の吾一も戻ろうと何度も海に潜ったけれど、結局はお互い同時に死にかけないとだめだったのだろう。
そしてミナミも大きな告白を抱えていた。これもタイムスリップものの魅力のひとつだけど、子供の父親はあくまでケンタなのだからもし健太が戻ってきても父親は違うということになるだろう。遺伝子検査をしてもいくら似ている二人でも違う人間だから父親は健太でないと出るだろう。ミナミからしたら同じ人間でも実際は違うのだから、後々もめたりしないだろうかと妙な心配をしてしまった。だからこの設定はもしかしたらいらないかもと感じたところでもあった。
とはいえ、長い時間がたった後波の合間に見えた頭は誰だったのだろう。健太なのか吾一なのか。最後までわからないけれど、最後のミナミの言葉を思うと、健太が帰ってきたのだと思う。そして遠くからミナミを見ていたおじいちゃんは、長生きすることのできた吾一だったと思う。
読者それぞれに想像の余地を与えた上、沖縄の美しい海と合わせた少し切ないラストは荻原浩らしい完璧なラストだったと感じた。
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