軽はずみに見るべきでなかった作品
目次
迫力のある映像で迫ってくる臨場感
変わりない日常生活から一転して、いきなり東京を大地震が襲う。その展開は当たり前なのだけど突然で、そして圧倒的な凄まじさで街は壊れていく。いやいや弟を連れていったロボット展で主人公である姉弟、未来と悠貴は震災に巻き込まれる。地震が起こるまでは弟に邪険に接し、直前にジュースを買いに行かせていた姉未来は、とっさに弟悠貴の無事を確かめるべく動こうとするさまは、実際の震災が起こったときの体験が元になっているのかもしれないリアルさが感じられた。
また突然の地震の恐ろしさは、アニメながらも実体験できるくらいのリアルな動きを感じられた。地震が起こった瞬間は画面を見ているだけでも自分が吹き飛ばされたような錯覚を感じられるくらいのカメラ割りで、生半可に実写ではない、アニメならではの良さを感じることができた。幾分かのあの揺れで東京はほぼ壊滅状態になる。あの景色の描写は恐らく現実にあの震度が起こると町並みはああなるだろうといったリアリティが感じられた(特にオープニングの歌で流れるモノクロの景色など)。
ただ東京タワーのような東京もしくは日本を代表するようなランドタワーがマグニチュード8.0とはいえ、ある程度は想定内のレベルの地震で倒壊するだろうかという疑問は残る。
マグニチュード8.0
この大きさの地震が起これば震度の違いはあれど、場所によっては震度7を測定するところもでるくらいの大地震である。阪神大震災を体験している身としてみれば、リアルな数字である。私自身、震度7が測定されたところに住んでおり、家は全壊した。あの風景は否応にもなく当時の忘れていたつもりだったものの多くが数々思い出され、途中で見ることができなくなって止めてしまった場面もある。恐らくあの映画を作るにあたり、多くの体験を元にストーリーが作り出されたことだと思う。だからこそ感じるリアリティに、自分がまだこれほどのあの時の記憶を覚えていることが驚きでもあった。
1年以上避難生活は送ったけれども家族からは死人もでず、そのせいで正直トラウマらしいトラウマもなく(しばらく朝目が覚めては、その時間が5時46分だったということは1年くらいあったけれど)、あれから20年以上たち、立ち直ったし忘れかけた記憶でもあった。でもこのアニメで地震が起こった瞬間、走馬灯のようにあの早朝の体験が覆いかぶさってきて(暴れまくったベッド、倒れてきた洋服ダンス、すべて開かなくなったドア、割れたガラス、どこからか漂ってきたガスの匂い)、その風景はまるで新しい経験みたいに記憶から溢れ出した。おかげで今また地震がきたらどうしようと、保存食の準備や家具の配置などに神経質になってしまったし、また悪い夢も見だすようになった。そういう意味ではこのアニメは決して軽はずみに見るものではなかったと感じたけれど、すでに後の祭りである。
だからこそある意味このアニメは地震の恐ろしさを再確認させ(経験者には思い出させ)、緊急の対応を忘れないようにというシグナルにもなったと思う。
地震が起こった瞬間のあのときの気持ち
地震が起こって収まった後感じた自分が今いる場所の閉塞感、自分がまだ生きていることの驚きとこれからのどうなるかの恐怖、弟がいない恐怖。そういったことはほとんどあの時の自分と同じ境遇であったため、わかりすぎるほどわかる。あの時は例え仲の悪い兄弟でさえ、とっさに相手の無事を確かめると思う。未来の場合は幼い弟を自分のワガママのためにジュースを買いに行かせたという後悔が立った分どれほどの恐怖だったことか、それは想像に難くない。自身のイライラを日常的に理不尽にぶつけていたことも、きっと上乗せされただろう。それは相手の生死がわからない一瞬だからこそ強く感じるものだけど、無事とわかれば途端元の態度になってしまうのも当たり前のことだ。だけどそれがどれほどの後悔を生んだのか、このときの未来にはわかるはずもなかった。
またあれほどの大きな地震が起こった時、本当にわけがわからなくなってしまう人が多いと思う。自分もその一人だった。下からの衝撃でベッドから放り出されながらも立つこともままならない状態の“これ”がなんだかわからなかった。まさか地震とは思わなかった。今までそういう体験をしたことがなければ、いざ自分がそこに巻き込まれたとき何がなんだか人はわからないものだと思う。それは地震だけでなく色々な事故もしかりだろう。そのあたりのただ茫然としてしまう感じがこのアニメにも描かれていて、そこはリアルだなと思ったところのひとつだ。
助けられながら家に戻ろうとする途中に起こった出来事
バイク便のドライバーである日下部真理は、このアニメではなくてはならないキャラクターだと思う。ああいう時には日本ならではかもしれないが、必ず助けようとする人が現れる。私自身もそのような人々に助けられた。未来にとって日下部は、出会うべくして出会った最高の人物だったと思う(彼女が女性だったということも安心感としては大きいと思う)。そして決して大げさな善意の人間でないところもリアリティがあり好感がもてたところだ。彼女と一緒に帰りながらも(食料調達も彼女がしてくれたけれど、幼い姉弟にはその有り難味があまりわかっていないようにも見受けられる。が、未来たちの年からしたらそれも当たり前なのかもしれない)、どこかふわふわしたままの未来に比べて、悠貴はあんなに小さいながらも姉を守ろうと常に気を張っていたのか、倒れてきた東京タワーから姉を守ろうと瓦礫が頭に当たってしまう。あのあたりはそれこそ正視できないものだった。瓦礫が当たった瞬間のあの悠貴の頭の跳ね返り方はひどくリアルで、かなりの重量のあるものがぶつかったことがわかる。心配させまいと普通に振舞う悠貴だったけれど、あの頭の反り方で、彼がどれほどの重傷なのかということは想像できてしまう。
最悪のラスト、戻りつつある日常に対しての罪悪感
心配させまいと気丈にふるまいながらも、吐き気をもよおしてからの悠貴の具合の悪くなり方は石が転がるようだった。震災体験者で身内をなくした人ならこのあたりは見ることができないのではないだろうか。個人的にはあまり過剰な視聴者への思いやりは好みではないけれど、さすがに多少の注意喚起は必要かもしれないと思った。ちょうどJR福知山線事故の後の「ノウイング」の上映延期や、東日本大震災の後の「ツナミ」の放送中止のように。
もちろんこの映画はそういった感傷的なものではなく、これから起こりうる大きな地震が来たときに対処するやり方や、避難の仕方、サバイバルの方法が随所に散りばめられている。だからあのような震災を体験をしていない(もしかしたらこれから体験するかもしれないと考える)人々にはリアルな場面とストーリーもあり、為になる映画かもしれない。だけど、私はもう2度と見ないと思う。軽はずみに見るべきものではなかったと今でも後悔している。
最後未来が日常に戻ることができ両親に迎え入れられながらも、悠貴に対しての罪悪感を感じているだろう場面がある。きっと彼女は周りからなんと言われようとそれを肩から降ろすことは出来ないと思う。自分の気持ちをどう扱って生きていくのか、彼女のサバイバルは今から始まったばかりなのだ。
リアルで残酷で、だけど誰の責任でもない
多くの命を奪いながらも天災は誰の責任でもない。そしてそれを体験したことのある人以外は、あまりそういったことに現実感を感じないと思う。たとえ海の向こうで津波があろうと、日本の村が泥の波に飲み込まれようと。この映画はそういったことが決して人事ではないという注意喚起には、ありとあらゆる悲惨な場面を綿密に描写することで一役買っていると思う。
だけどその描写はあまりにもリアルなため、体験者にはつらい体験を追体験させる結果になったではないだろうか。私はそこまではないけれどずっと見続けるのには苦痛を感じた。だからこの映画はもう2度と見ない。この映画を見て多くの人々は泣いたと言うかもしれない。けれどその涙は必要だったのかどうか、私にはわからない。
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