森見登美彦のボキャブラリーを駆使した、古風で斬新な文体で魅了する「有頂天家族」
桓武天皇の御代、万葉の地をあとにして入来たる人々の造りあげたのが京都である------と、これはあくまで人間の見た歴史だ。狸に言わせれば、平家物語に出てきた武士、貴族、僧侶のうち、三分の一は狐で、三分の一は狸で、残り三分の一は狸が「一人二役」でこなしたのであるし、天狗に言わせれば、王城の地を覆う天界は、古来、彼らの縄張りであった------?!。
森見登美彦の「有頂天家族」は、実に人を食った出だしの小説だ。京都には今も、人間と狸と天狗が「三つ巴」で暮らしているというのだ。いやあ、実に食えない、食えない。
この作品は、あのジェントルでいけずで奇っ怪な「京都ホラ話」にして、時代を超えたラブ・コメディの傑作「夜は短し歩けよ乙女」で、人気が爆発した著者による長編小説だ。この作品でもまた、著者がテリトリーとする京都の街を舞台に、著者十八番の「偽電気ブラン」や「腐れ大学生」が登場し、怪しいキャラクターがぞろぞろ。
なにしろ語り手は、存命中は洛中にその名をとどろかせた大狸・下鴨総一郎の「阿呆な」三男坊。そして、準主役に、下鴨の敵対家と天狗先生たち、マドンナに、天狗顔負けの術を習得した「半人半天狗」の美女という具合だ。
狸鍋となって死んだ父、宝塚歌劇団狂いの母、四人揃って冴えない息子たちの家族愛あり、報われぬ老いらくの恋あり、化かし合いあり。しかも骨格には、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を借りているようすもある。とにかく、森見登美彦のボキャブラリーを駆使した、古風で斬新な文体には、くすぐる小ネタも満載で、どんどん読ませるのだ。
「夜は短し歩けよ乙女」では、現実世界と魔界のあわいが、絶妙に書かれていたが、この作品は、実在の街(と思われるもの)を舞台にしながら、完全に異世界ファンタジーになっている。ただ、人間界を舞台にしながら、人間との相違や対比があまりないところが、私にはちょっと勿体ない気がしましたね。
狸や天狗にしか持ち得ぬ視点や世界観、言ってみれば「異類のもたらすセンス・オブ・ワンダー」をもっと感じたかった。著者の過去の作品群において、たとえ人間同士の間にも「異類への驚異」が満ち満ちていたように。
例えば、ロボットの物語は、なぜ哀しいのか。それはまずロボットが、人間と違うからだ。でも、最終的には、人間と似ているからだ。その、似ているのに違う、違うのにやはり似ているという情感の行き来を体験したかったのだ。
それにしても、独自の雅な文体作りの武器であった、ある種の「含羞」から、森見登美彦は、いい意味で解放されつつあるのではないだろうか。さらなるブレイクの予感がしてならない。
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