『エレファント・マン』ーー可視性という暴力の物語
獣姦の落とし子
これほどまでに美しい強姦の場面があっただろうか? 映画が幕を開けて我々が最初に目にするのは美しい女の顔写真である。遺影を連想させるかのようなおぼろげなモノクロームの肖像、その上に不安とも憎悪ともつかない視線を我々に向ける女の顔が重ねられる。女は目の前にある何かに怯えている様子だ。フェードアウトの後に闇から現れるのは象の一群、そこに先ほどと同じ女のひきつった顔が再び重ねられることで彼女の視線の先にあるのが象であることが明かされる。そして凄惨な凌辱の場面が我々の眼前で繰り広げられる。画面に向かって迫りくる象。そのうちの一頭が咆哮とともに巨大な鼻を振り上げ、女を荒々しく地面に押し倒す。スロー・モーションで描かれる暴力と苦痛。顔を歪めて首を激しく振る女のクロースアップ。土埃を巻き上げ、大きな耳をはためかせながら、象はあまりにも露骨な男根の象徴である長い鼻を突き動かす。そして子宮に放出された精液のように白い煙幕が闇を切り裂いて噴き出すと同時に、獣姦の帰結となる呪われた赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。映画のレトリックを駆使して描かれるレイプの醜い暴力性にたじろぎ目を背けたくなる一方で、映像の圧倒的な美しさに息を呑まずにはいられない。
しかし物語の上では、これは強姦の場面ではない。後に奇形の子どもを産み落とすことになる女が、妊娠4か月目に象に腹部を踏まれた事故を描いた場面ということになっている。伝記的な事実に基づくとすれば、この事故もまたジョンことジョゼフ・メリックをめぐる数ある伝説の一つに過ぎない。実際には彼の類まれなる奇形は先天的な骨の病気によるものであり、象は無関係である。だが、ヴィクトリア朝時代のロンドンの見世物師や大衆は彼を「エレファント・マン」と呼び、不幸な事故により産まれた半人半獣の怪物という伝説を作り上げた。デヴィッド・リンチは監督第2作目となる映画『エレファント・マン』(1980年)においてジョン・メリックの誕生を象による強姦を喚起するイメージを通して描くことで観客を動揺させる。また強姦への象徴的な言及は、メリックの伝説をさらに普遍的な神話の地位に高めてもいる。ここで描かれる象によるレイプは、白鳥の姿に変身したゼウスによる人間の乙女レダの凌辱や、呪いをかけられたクレタ島の王妃パーシパエーと牡牛との交わりに連なる獣姦である。レダとゼウスのあいだに産まれた絶世の美女ヘレネがトロイア戦争の引き金となり、パーシパエーが産んだ怪物ミノタウロスがクレタ島の災厄となるように、象と女の血を引く怪物エレファント・マンの誕生もまた悲劇を予感させずにはいられない。
舞台劇『エレファント・マン』との関係
映画『エレファント・マン』が公開された1980年当時、ブロードウェイではジョン・メリックの物語を題材とする同名の舞台劇が前年から上演されて大ヒットを飛ばしていた。映画を観た当時のアメリカの観客が舞台の『エレファント・マン』を意識しなかったとは考えにくい。しかし映画のエンド・クレジットには、本作がバーナード・ポメランス作の同名の舞台劇と無関係である旨が几帳面に記載されている。どこの国でも映画館の観客の多くは、画面が暗くなってクレジットの音楽が聞こえはじめた瞬間に借金取りにでも追われているかのような勢いでそそくさと劇場から退散するものである。契約書の裏面に書かれた約款のような但し書きには目をくれることすらないだろう。それでも、わざわざ舞台とは無関係であると明記しなければならなかったのには、権利上の諸事情だけでなく本作と舞台版とのあいだに見られる決定的な演出上の違いも大きく影響しているように思われる。
舞台の『エレファント・マン』では、誰もが目を背ける醜い奇形のジョン・メリックを美男子の俳優が特殊メイクの類を一切用いることなく演じることが慣例となっている。映画が公開されていた当時に上演されていたブロードウェイ版では中性的な美しさを備えたデヴィッド・ボウイがメリックを演じ、2002年の日本版では当時20歳の若き藤原竜也が舞台上で全裸になることも厭わずに演じきった。2015年にロンドンでも再演された2014年のブロードウェイ版では映画『ハングオーバー!』シリーズ(2009-13年)などで知られ、2011年の『ピープル』誌で最もセクシーな男性に選ばれたブラッドリー・クーパーがメリック役を務めた。美しい容姿の主人公に周囲の人間たちが嫌悪と憐憫のまなざしを向けるという皮肉は、登場人物がメリックの内面の美しさに対して盲目であることを暗示することでメリックが生きた19世紀帝国主義のイギリス社会の傲慢さや偽善、偏見を暴き出す仕掛けになっている。
一方、デヴィッド・リンチの映画は舞台とは真逆のアプローチを採用している。ジョン・ハート演じるメリックは、もはや誰が演じているのか認識できないほどの全身特殊メイクを施されている。グロテスクな奇形は王立ロンドン病院に現在も保管されているメリックの遺骸の石膏模型に基づき、細部にいたるまで忠実に再現したものである。白黒の映像により生々しさは若干和らげられているものの、観客はトリーヴズ医師やケンドール夫人をはじめとするロンドンの人々が目にするとおりのジョン・メリックの姿を見て、彼らが受けるショックやメリックに対して彼らが抱く同情心を共有することになる。肥大した頭部を持つメリックはリンチのデビュー作『イレイザーヘッド』(1977年)に登場する、子牛のような頭を持った醜悪な赤ん坊が成長した姿なのだろうか? グロテスクな暴力や混沌たる無意識の世界を主題とするリンチの作品群を踏まえれば、リアリズムを追求してメリックの奇形を実物そっくりに特殊メイクで作り上げたのは驚くべきことではない。むしろ注目すべきは、そうすることで映画が身体的奇形を見世物とするヴィクトリア朝時代の価値観に観客を加担させてしまうという点である。舞台版とは違った形で、リンチの映画は倫理的な居心地の悪さを観客に感じさせる。観客は好奇のまなざしがメリックを深く傷つけていると知りつつも、彼から目を離すことが許されない。
可視への欲望と近代
まなざしの暴力性を強調するかのように、闇を容赦なく照らし出す光のイメージが本作の随所、とりわけ場面の切り替わりのショットにおいて用いられる。見世物小屋で焚かれる炎、手術室に据えられた暖炉の火、病院の廊下のガス燈の明かり、大学病院の研究発表でメリックの裸体に当てられる強烈な照明、入院したメリックを夜な夜な見世物にする病院の職員が煙草につけるマッチの火、メリックが誘拐されて再び見世物に立たされるベルギーのサーカスの場面で空に走る不吉な稲光など、電燈が導入される以前の19世紀後半の夜を照らすありとあらゆる光源が登場する。これらの多くは科学技術の時代を象徴する啓蒙の光であるとともに、あらゆるものを視界にとらえようとする物見好きな人々の欲望を表すものであろう。メリックを見世物小屋の劣悪な環境から救い出したはずのトリーヴズは科学の名のもとに彼の奇形を好奇の目に晒しているとなじられ、倫理的葛藤に陥る。トリーヴズの紹介によりメリックが接するロンドンの社交界もまた、結局奇形に嫌悪と好奇の目を向ける見世物小屋の客たちと変わらない。近代は闇を放逐し、人類の起源や神といった領域にまで光を当てた時代である。だが同時に、その啓蒙の光は見ることや知ることに対する人間の飽くなき欲求を浮かび上がらせたのだ。
ギリシア神話の中でプロメテウスが盗んだ火が人類に文明をもたらしたのと同様に、火は近代技術の発達においても重要な役割を果たした。『エレファント・マン』の舞台となったヴィクトリア朝時代のロンドンは、まさに産業革命が花開いた中心地である。いたるところで炎が踊り、煙が噴き出している。病院や工場の煙突からは煙が立ち上り、蒸気船や機関車は黒煙を吐き出し、街道にはスモッグが充満する。劇中でメリックが見る悪夢は、象の咆哮を思わせる轟音を立てながら蒸気がパイプを走り抜け、上半身裸の労働者たちが煙の立ち込める工場内の灼熱に耐えつつ機械の一部になって単純作業を続けているという内容である。夢の中で彼が目にするのは文明の負の側面にほかならない。文明の繁栄は、労働者階級や障碍者といった社会的弱者を虐げた上に成立している。労働者は非人間的な環境で搾取され、メリックのような障碍者は見世物小屋で視線の暴力に晒されるほかに生きる道がない。階級格差や植民地支配に代表されるように、他者を蹂躙することでさらなる発展を遂げたのが19世紀の帝国主義であった。本作はメリックという一人の奇形を持った人間に焦点を当てることで、近代社会の歪みを突いているのだ。
母なる暗闇へ
サミュエル・バーバーのアダージョが効果的に用いられた本作のラスト・シーンでは、残酷な可視性からの解放と母胎への回帰という形でメリックの死が描かれる。普通の人と同じ姿勢で寝ると頭の重さで窒息死してしまうことを知りながらも、メリックはベッドからクッションをどけて体を横たえる。カメラは安らかに眠るメリックの死に顔から、ケンドール夫人の肖像と聖書、そして母親の肖像写真が置かれたナイト・テーブルへと移動し、彼が死の直前に完成させた聖フィリップ教会の模型のある窓際を映し出す。模型の背後の窓にはレース・カーテンが引かれ、実物の教会を見ることはできない。それはあたかも見えない部分にこそ神性が宿っていることを示唆するかのようである。そもそも病室から見えるのは教会の尖塔だけであり、メリックは見えない部分を想像で補って模型を作っていた。可視性は信仰を奪い、想像の世界を破壊する。好奇心や科学によってすべてを白日の下に曝け出すことで、目に見えない存在に対する畏敬の念は損なわれる。見られる対象としての宿命を背負ったメリックはそんな可視性の暴力の犠牲者であったといえるだろう。
そして場面は唐突に病室から宇宙の闇へと切り替わる。星々が瞬く宇宙空間をカメラが移動する中、アルフレッド・テニソンの詩 “Nothing Will Die”(1830年)を朗読するメリックの母親の声が聞こえてくる。その直後、金環食の月か太陽のイメージに重なるように画面いっぱいに広がる巨大な母親の顔が現前する。炎と光がギラギラと輝く世界とは対照的な宇宙空間の暗闇は、メリックの魂に安らぎをもたらしてくれるであろう。金環食も同様に光の否定を具現化する象徴であり、この一見とっぴな宇宙への飛躍は暗闇の優しさを表現している。メリックにとってこの暗闇は子宮の内側であり、母親との再会の場である。舞台版では性的な含意が色濃くほのめかされているケンドール夫人とメリックの関係が本作では疑似的な母子関係として描かれている点も、メリックの母親に対する思慕を強調している。メリックの母との再会は、まさしく母胎という優しい闇の中への帰還なのである。
「決して、ああ決して/何も死なない/小川は流れ/風は吹き/雲は過ぎゆき/心臓は鼓動する/何も死なない」と謳うテニソンの詩は、万物の死を嘆くもう一つの詩 “All Things Will Die”(1830年)と対をなしている。生命を与えられたものは死ぬ運命にあり、個々の命は滅びていく。しかし季節が移り替わるように変化を繰り返しながら常に新しい生命が生まれてくる、と二つの詩の中でテニソンは説く。生まれ出た個としての命は死んでいくが、命の総体は生まれることもなければ死ぬこともない普遍的な存在だ。メリックの物語もまた神話的な普遍性を与えられ、語り継がれてきた。そしてすべての神話と同様に、物語は語られるたびに形を変えていくだろう。本作およびポメランスの舞台劇は、普遍的な物語を違ったアプローチで語る好例であるといえる。
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