カッコーの巣の上でのあらすじ・作品解説
小説家ケン・キージー氏のベストセラーをミロス・フォアマン監督が映画化した人間ドラマ。精神病院を舞台に患者を完全統制しようとする看護婦長と、それに抗う男の姿を通して人間の尊厳と閉鎖された精神病院での非人道的な治療を告発するアメリカン・ニューシネマの代表作の一つ。なお「カッコウの巣」とは精神病院の蔑称。 刑務所の強制労働から逃れるため、詐病を装い州立精神病院に入った主人公のマクマーフィーは、そこで行われる管理体制に大反発。他の入院患者達を扇動して次々と問題行動を起こし、絶対的権力をもつ婦長ラチェッドと対立を深める。そんな中、仲間の自殺を機にマクマーフィーは婦長を絞殺しかけ、ロボトミー手術を受け廃人になる。患者のチーフは彼を窒息死させ、病院を脱走しラストを迎える。 日本の重大事件の精神鑑定などを行った精神科医の故・小田晋氏は生前「カッコーの巣の上で」の主人公は、明らかに虚偽性障害や反社会性人格障害、間欠性爆発障害の兆候がみられると述べているが、その指摘は本作品の内容や製作意図とは無関係である。
カッコーの巣の上での評価
カッコーの巣の上での感想
ミロス・フォアマン監督の正気と狂気の混乱を描いた問題作「カッコーの巣の上で」
この映画「カッの巣の上で」の原作は、ケン・ケイジーのベストセラー小説で、アメリカの反体制的な若者達に圧倒的な人気があると言われている。 この映画の原題は、子守唄の「一羽は東に、一羽は西に、一羽はカッコーの巣の上を飛びました」というのからきているが、カッコーには"狂気"の意味があるのだ。 この「カッコーの巣」とは、精神病院ひいては、その象徴する非人間的、没精神的な現在の管理社会を意味しており、それに反抗して、自由な精神の翼でもって、独り飛ぼうとしたのが、ジャック・ニコルソンが熱演するマクマーフィであり、彼が落ちたその後を、その精神を受け継いで、代わって飛び立っていったのが、ウィル・サンプソン演じるインディアンのチーフであるというように、理解する事ができるだろう。尚、カッコーは、他の鳥の巣に卵を産むというから、「カッコーの巣」には、もっと深い意味が潜んでいるのかもしれない。 仮病を使って、刑務所...この感想を読む
精神病院での話
精神病院での映画はあまりない。この作品は大学の授業で見せられたりもする。知人が精神病院に入院して、再度、見た。どの時代においても、精神病院は、ろくでもない。この映画に限らず、ジャック・ニコルソンの演技はいつもすばらしい。でもこの映画はとても特別なものだ。刑務所からにげるために仮病を使って精神病院に入院したランドル。ランドルは患者を扇動する。そのカリスマ性はすごい。カッコーの巣は、精神病院を表している。ラストに驚いた。ハッピーなのか、そうでないのか、人によって変わるラストだ。ただ、良くも悪くも、心に残る作品であるのは間違いない。
精神病院で自由を叫ぶ
ケネディのお陰でアメリカの精神医療改革が進み、精神病院の劣悪な環境は改善されたと聞くが、作中の病棟の様子を見ると閉鎖的で索漠とした印象を受ける。主人公のマクマーフィーは茶目っ気たっぷりで野卑なやさぐれ者で、刑務所の労働を嫌い精神を病んだふりをして入院するのだが、規則と義務という尺度でしか人間を見ることが出来ないようなラチェット婦長と衝突を起こす。その結果は悲劇的なものだ。一見すると非人間的なまでに厳格な婦長のほうが悪役ということになろうが、婦長の治療上の判断はそこそこ的確であり、マクマーフィーは病気を装っているにしては行動が過剰すぎるところがある。善悪のレッテルがはれない巧妙なつくりになっているのだ。ただ婦長の患者の主体性と個人の意思を軽視する態度は明らかに問題があるが。それは旧来の精神医療の問題でもある。
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