どこかしら非日常感が感じられる作品
三人の作家が書いた3つの短編
この「架」に収められている3つの物語は、それぞれ火野葦平、ルゴーネス、吉村昭の3人が書いた短編が収められている。吉村昭を好んで読んでいたこともあり勢い勇んでこれを手にとったものの、吉村昭の作品は既読である「少女架刑」のみであり、あとはかろうじて名前は知っているものの読んだことのない作家たちだった。こういう機会でもないと読むこともなかったかもしれない新しい出会いに多少わくわくしながらページを繰っていった。
少し調べると火野葦平という作家は、戦前から様々な苦労を様々な作品を作り上げ、そしてその中には河童が登場する作品が多いらしい。彼と河童がどのようないわくがあるのかはわからないけれど、河童が主人公という話も日本昔話以外には読んだこともなく、どことなく興味を惹かれた。
もう一人ルゴーネスという作家。彼のことは名前をなんとなくどこかで聞いたことのある程度(恐らくなにかの小説に出ていたくらいのものだと思う)でなにも知らなかった。だからこそこのような出会いで彼の文章を読めたことは幸運に思う。
鈍重で、暗愚で、真摯で、傲岸で、怠惰な河童の話
このような始まり方をするこの話は、主人公がそのような河童であることも手伝い、河童に対する知識がゼロの私は好奇心のみでそこから読み進めた。その河童は意味もなく行動が重々しいので、周りの河童からもなんとなく村の長のような信頼を得ていたのだけれど、その信頼の根拠がそもそも手薄なものだから、どうしてもその河童に対するイメージがなかなかわかなかった。しかしこれは周りの河童たちが彼にもつ印象と恐らく同じなのだと思う。あげく彼は失踪してしまうのだけれど、失踪という謎めいたニュアンスでさえどうしても、いわばその彼による“でっちあげ”のような感じがして、どうも物語にすんなりと頭が入り込めなかった。その上昔ながらの難解な文体なため余計目滑りしてしまって、恐らく物語の魅力の半分もわかっていないと思われる。
翻訳された文章でも時にこのように文章が目すべりしてしまって、全く頭に入ってこないことがある。だけれどそれとこれとは次元が違うように感じた。どうしても鈍重で、暗愚で、真摯で、傲岸で、怠惰な河童に個人的に興味がもてないのだ。
物語のラストは恐らく、この河童本人が火野葦平に対して小説家希望の自分の作品を送ってきたというようなオチなのだと思う。なぜ“思う”なのかと言うと、ラストに向かい文体が加速度的に古さを増していき、目すべりするどころか読むことさえままならない文体になってきたからだ。
このような、思いがけなく登場人物から物語を提供される話で思い出すのは、手塚治虫「ブラック・ジャック」の話のひとつだ。ピノコがブラック・ジャックに届いた手紙に書かれていたピノコの出生の秘密を読み、実話だと思い込んでヤケ酒してしまう話だ。その手紙はただの小説家希望である登場人物が手慰みにかいた小説だとも知らずに。だけどこの話は数ある「ブラック・ジャック」の話の中でも好きなもののひとつだ。ピノコの痛いほどのブラック・ジャックへの愛情を感じられる切ない物語だと思う。
文体が文体なだけに理解ができなかったけれど、きちんと読み解けば、それくらい切ない話なのかもしれない。
この作品だけで火野葦平の評価をするつもりは毛頭ないが、次彼の作品を読むときは気合をいれてかからねばなるまいと思っている。
神話的な趣きと詩的な雰囲気を併せ持つ「火の雨」
平和そのものだった“私”の普段の生活を一度に変えたのは、雨のように降り注ぐ赤銅の粒だった。タイトルそのまま燃えながら降り注ぐそれは、落ちるときに容赦なくその周りをえぐり焼き尽くす。“小雨”のようだった第一波が終わり、ようやく終わったと安堵した人々を尻目に、本腰をいれて降り注いだそれは彼の世界を一変させた。このようないわゆる“超自然”的は話は個人的に大変好みで、またメリハリのきいた文体も手伝い、どんどん読み進むことができた。1874年という今から実に143年前に生まれ生きた作家の文章であるにもかかわらず、赤銅が振りそそぐ残酷な描写とはいえ生き生きと目の前にその映像が再現された。
そしてそのような世界の終わりのような風景(前述した“第一波”の後ではあるが)周りに繰り広げられているにもかかわらず、娼婦たちの胸かざりのきらびやかさ、絵を売る人々のカラフルさの描写は、雨のあとの木々の緑のように妙に水々しく感じられた。
主人公である“私”は第一波をやりすごしたあと、富豪らしい満足した眠りにつく。その後本格的な“豪雨”に見舞われるのだ。
この豪雨である赤銅が、タイトルでもある「火の雨」であることは間違いないのだけれど、なぜ赤銅が降り注ぐのか、ならどうして空は晴れたままであるのか、といったことにまるっきり気がまわらないのが不思議なところでもある。
それは主人公がなぜかそのような事態に見舞われながらもワインを飲んで元気を取り戻したり、どこかしら平静を保っているところから来ているのかもしれない。周囲の状況は大変なことになっているのに当の本人はまるでのんきなこの感じは、フランツ・カフカの「変身」を思い出させる。また街もそのような大惨事に見舞われている中、自分で出来うる限りの晩餐を開き、そこで自ら死を図ろうとするところの退廃的な文章はドストエフスキー「罪と罰」を思い出させるが、ルゴーネスは1874年アルゼンチンで生まれている。ルゴーネスが1866年に書かれたこの作品を読んだかどうかはわからないけれど、もしかしたら影響を受けたところもあるのかもしれない。
そのような不思議な因縁を思わせた作品だった。
死んで尚一層静けさを纏わせていく少女
吉村昭のあまりにも有名なこの作品は、「星への旅」の単行本に収められていて読んだことがあった。「少女架刑」という少し残酷描写を連想させるそのタイトルにもかかわらず、この物語にあるのは最初から最後まで透き通るような静かさだけである。死んで尚意識のある少女が(というよりは彼女自身の霊体が亡骸から離れずにいるような印象だが)、自身が解剖され焼かれ骨壷にいれられていく様をじっと見続けている少女の静かな目線が印象的な物語である。
貧乏な親のためにずっと働き、死んだあともその亡骸をいくらかの金銭と引き換えに売られた少女は、死んでから初めて自身のための静かさとその場所を手に入れたかのような、死んでしまったけれどその死の世界は彼女にとってはきっと慈悲深かったのではないかと思えるような、そんな物語だった。
吉村昭の作品はいくつか読んだけれど、私見ではあるけれどいまだにこの「少女架刑」を越す作品に出会っていない。もっと言えば、これが収められていた「星への旅」が吉村昭の作品で一番好きだ。
時々現実に疲れ、周囲との関わりを忘れたいとき、いわば自分の音を消したいと思うとき、私はよくこの作品を読む。そうするとこの物語のもつ静謐さが私を現実から乖離させてくれ、読み終えたあとは血液が全部きれいになったような、体が少し軽くなったような気がする。
この作品は私にとってはそれくらい大事なものだ。
タイトル「架」が示すもの
1907年生まれの火野葦平、1874年生まれのルゴーネス、1927年生まれの吉村昭と、この著名な3人が名を連ねるこの「架」だけれど、そもそも“架”という意味は、物をのせたり掛けたりする台、さお、空中にかけわたす、かけるなどの意味がある。吉村昭の作品が「少女架刑」とこの文字を使ってはいるけれど、他の2人はまるで関係のない言葉だ。いわばこの“架”という言葉はこの作家たちを示すのではないだろうか。空中に掛け渡す、という意味で新しい世界と私たちをつなぐ意味合いなのだろうか、とそんな風に感じた。
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