美しく切ない深津絵里の演技と、”悪人”の定義に迫ってみよう
大ヒット小説を、高い本気度で映画化!
いわゆるノワールもの=人間の心の闇を扱う作品かと思って視聴した。
最初に見た時から、とにかくヒロインの美しさに尽きる作品だとは思ったが、殺人を犯した男性の挙動には納得のいかない部分もあり、何度か見直した。
3回目のリピートで本作は特定の人間の闇を語っている訳ではなく、全ての人間の闇を語っているのだ、という考えに達した時、いろいろな演出が腑に落ちた。
この手の作品は視聴後、腹の中に異様な不快感を残すか、あるいは感動や激情に走るか、どちらかに振れた作品が多いように思うが、本作は安易な解決に走らなかった点が心に刺さる。
「ひとつの殺人事件。引き裂かれた家族。誰が本当の“悪人”なのか?」
このキャッチコピー李相日(り そうじつ)が明瞭にこの作品を表しているように思う。
巻き込む者、巻き込まれる者たちが細かく描かれており、視聴後に見た人同士でこのコピーについて語らずにはいられない、そういう作品だ。
李相日監督の演出
監督は李相日(り そうじつ)。
名前から判断するに韓国の人なのかと思うが日本で生まれている。
いわゆる在日三世と呼ばれる人らしいが、そこに偏見を持ちたくない。
映画監督である以上、作品を評価すべきだからだ。
2006年のフラガールで日本アカデミー賞の最優秀作品賞を取り、既に高い評価を得ている。
上記の作品でも都会慣れした人物と、地方に住む労働者階級の生活を扱っており、本作と同様に社会の端っこに生きる人々にスポットを当てているという共通項がある。
脚本は、李相日と原作者であり長崎出身の吉田修一が二人で作っている。
原作者自ら脚本に参加すると言う時点で、この映画が本気で作っているという態度が伺える。
九州出身の俳優を多く使っているのもその本気の一端だろう。
その土地に住む人をリアルに描きたい、雑な映画にしたくない、という二人の意思が強く感じられる。
私も長崎県の生まれで、福岡でも多くの時間を過ごしているが、劇中の言葉に違和感はなかった。
雑なエンタメ映画なら特に問われないが、本作のように地方にうごめく人のリアルを描く作品で、方言の間違いなどあると激しい興ざめが起きるが、本作はどこまでも徹底している。
片田舎の象徴性として、食材としての魚介が多く登場するのも、演出の妙だろう。
佳乃の母がエビのわたを取っていたり、祐一の祖母が魚の内臓を抜いているシーンは、都会的ではない生活臭が漂うシーンだ。
他の人物についても、食事の店選びだけでそのキャラクターの個性を明確にする演出をしている。
現代的若者の象徴的人物である増尾が仲間とたむろしているのはSOL FAMILIAという福岡に実在するしゃれたイタリアンレストランだ。
女性に人気の豪奢な装いと、デコレーション性が高い料理が人気なようだ。
増尾を語る上で、ここが超高級店という店でもないことも明記しておくべきだろう。
客単価は平均的には4000~5000円程度だろうが、2000円台からの食事も可能であり、味を追求した三ツ星レストランなどではない。
要するにこの店にいることで、スマートな雰囲気を醸し出してはいるが、秀でたものは何もない増尾の人間性を示しているのだ。
当然彼は魚の内臓などの臭いものに触れることは無いだろう。
佳乃が餃子臭いということもさんざん叱責している。
そのような人間としての薄っぺらさを店がまえだけで表す演出が心憎い。
一方、佳乃が友人と食事をしていたのは、これも福岡では有名な鉄鍋という餃子専門店だ。
彼女の場合、福岡の近郊都市である久留米から出てきており、福岡の有名店で食事をする、という事が一つのステイタスと感じているのだろう。
とはいえ、さほど金があるわけでもないので、庶民的な価格帯の店としてここが選ばれたのだ。
そして主人公である祐一と光代はというと、佐賀県の呼子でイカ料理屋に立ち寄っている。これもこの地域の観光のテッパンであり、美味しいことは間違いないが、ある意味陳腐とも言える。
デートで行かない場所ではないがオシャレさは皆無で、彼らの年齢であれば初めての食事に選ぶ可能性は低い。
つまり二人はあまり気が利いた店の知識がなく、味も値段も無難、という小市民的選択をしたのだろう。
何と言っても深津絵里
深津絵里が演じる馬込光代は非常に難しい役柄だと思う。
殺人を犯してしまった祐一にとっては聖女と言ってもいい存在である。
しかし自己評価は低く、自分自身をつまらない女と思っている。
そして周囲からも特に高く評価されることは無く、特に親しい友人もいないのだろう。
最初は光代を心配していた妹も、状況の変化を見て態度を変えている。
「あんたのせいで、みんなどげんか目におうとるか分かっとると?!」と叫ぶ妹。
姉が、自らの判断で殺人者と行動を共にしている知ってからは、心配したり倫理を説いたりせず、自己保身を訴えているのだ。
確かに光代の行動は、家族や社会への影響を顧みない身勝手な行動である。
しかし、唯一の肉親である妹が、普段自己主張しない姉の唯一の望みに対して事情を聴くそぶりも見せないことで、光代の孤独の深さが浮き彫りになる。
深津絵里の演技の凄さなのだろうが、自分を語ることが少ないのに光代というキャラが自然と視聴者の中に浸透していく。
ごく地味な女性として描かれる彼女だが、時にとてつもなくエロティックだし、ある時は限りなくイノセントだ。
クライマックスの必死に灯台に駆け上がるシーンは純粋に泣ける。
そして首を絞められるシーン、苦しんでいるが、解放された直後のニュートラルな表情がなんとも美しい。
この映画はある意味、彼女を美しく見せるための映画と言っても過言ではない。
モントリオール映画祭で彼女が主演女優賞を取っているのという事実が、この映画の評価を物語っている。
“悪人”とは?
冒頭でも書いたが、本作品はキャッチコピーで誰が本当の“悪人”なのか?と問いかけている。
本作を語る上で必ず話題にされることだと思うので、私も自分なりにこの問いに答えを出したい。
最初に結論を書いておく。
この映画は、全ての人間が悪を内在していると語っている。
つまり主人公たちだけでなく、モブの出演者や視聴者も含めて、人間は悪人たりえる、というのが私の答えだ。
最も狭い意味で、モラルが低く同情の余地が少ない、いわゆる根っからの悪人と思われる行動をしているのは、岡田将生が演じる増尾と満島ひかりの佳乃だ。
確かにこの二人がいなければ、この殺人事件はおきなかっただろう。
では、清水祐一に内在する狂気はこの二人が引き出したものなのか?
彼らに関わらなければ、祐一の暴力性は永遠に発現することは無かっただろうか?
彼は長崎の片田舎に閉じ込められた自分を、何かの形で開放したかったのではないか、と私は考える。
つまり祐一の内なる暴力は既にきっかけを待っていたのだ。
例えば自分を愛してくれた祖母が他界し、祖父と彼だけが残されたケースを考えてみよう。
孤独な介護に疲れた彼はいずれ祖父を殺してしまうかもしれない。
あるいは解体業の中で、人間として不器用な彼を馬鹿にする顧客と出会ったとしよう。
自分を悪く言われる事には我慢するだろうが、彼を引き立ててくれた伯父をもけなすような発言をされた時、彼はその相手に殺意を抱きはしないだろうか。
佐賀で同じ日々を繰り返すことに飽きた光代の逃避願望も、何かのきっかけを待っていたにすぎない。
彼らの日常に、闇は常に潜んでいたのだ。
では、悪いのはその4人か?
例えば佳乃の両親や祐一の祖母は善良な人間に見えるが、果たしてそうだろうか?
彼等の全てがまだ見ぬ佳乃を殺した犯人を、疑いがある段階で“悪人”と決め込んでいる。
この不確かな情報で、嫌疑をかけられた人を追い詰めるのはまさに現代社会が内包する社会悪だ。
貧しいものや、社会的不成功者への蔑みも同様に社会悪と言える。
増尾は自分がそれなりに裕福であり、自己肯定が激しい男なので、貧しいものやスマートでないものを露骨に見下す。
佳乃も人間性は違うが、その価値観は似たようなものだ。
彼ら若者は、金を持っていることとスマートであることが全てなのだ。
当然二人は、見るからに田舎者で肉体労働に従事している祐一を価値のない人間と見なす。この価値観こそが、祐一や光代の鬱屈を育てているのだ。
しかし、祐一と光代も単なる被害者ではない。
彼ら自身が同様の価値観にとらわれて、自分たちの存在を卑屈に感じているからこそ、暴力や逃避願望が膨らんでいく。
そして、社会の歪みを生み出しているのは若い彼らだけではない。
むしろ彼らは、社会が生み出した平板な価値観に踊らされている末端に過ぎない。
このような若者を作ったのは、佳乃の両親や祐一の祖父母らの世代である。
戦後を生きてきた彼らは、自分たちの苦労を子供に追わせたくないと思い、暗いものや汚いもの、苦しいものを遠ざけすぎた。
それゆえ、彼らは生きるということが、苦しみの上に成り立っていると知らずに育っており、たまたま貧しく生まれてしまった人や、不器用さゆえに成功を得られない人々を、異質なものとして忌み嫌う。
この連鎖が、彼らの価値観を捻じ曲げたのだ。
そして、中高年の人々は家族という枠を重んじるが故に、自分たちは悪くない、という大きく片寄った考えに固執する傾向がある。
これは妄信という悪である。
佳乃が出会い系サイトを使っていたことは知っていても、両親たちは佳乃にも非があったのではないか、という発想は一切持たない。
彼女を置き去りにした増尾や実際に手を下した祐一を純粋に、単純なまでに憎む。
自分が知っている側に非はない、娘は殺されたのだから100%被害者だ、という発想だ。
祐一の祖母も同様だ。
彼女もまた、殺人の話を聞いた時点では、見も知らぬ犯人を侮蔑しており、異質なものを忌み嫌い排除しようとしている。
彼女を励ますバスの運転手ですらそうだ。
「あんたは悪くない」という言葉は一見感動的に響くが、これは裏返せば「悪いのは手を下した奴だ」と言っているのだ。
この無理解や決めつけ、固定観念こそが悪なのであり、ここから抜け出せない人々が悪人を生むのだと私は思う。
最後の光代のセリフの解釈
クライマックスで光代が「あの人は、悪人なんですよね」と呟く。
この時光代は、被害者という存在を客観視して、自分たちの行動を再確認し、自分への戒めや後悔、そして祐一への憐憫を心に記している。
これは決して彼だけに悪を押し付けている訳ではないと私は信じる。
そして同時に世間の一人として彼を認識することで、誰が“悪人”かという判断は、本人たちの生き方や誠実さに関わらず、周囲が作り出すのだ、という人間の業の両面を示しているのだ。
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