ただ善く生きることの偉大さ
生きる力を高める映画
この得難い作品についてひと言で表した時、心温まるとか心洗われる、みたいな言い方をきっとよくされるのだろうと思います。けれど、それではあまりにありきたりで不十分であって、私はこの作品は「生きる力を高める映画」なんだと思っています。
折りに触れて見直すと、どのシーンから見たとしても、見た瞬間にぐっと何か引き上げられるような、生きる力が高まるような喜びの感覚があります。この作品の、なにか作品の存在自体が祝福されているような佇まいはどこから来るものなんだろうか。
映画の中に描かれているようにもちろん、アメリカには光と影があって、色んな大きな出来事があったけれど、この映画の中にはかつてのアメリカがたしかに持っていた、ある種のシンプルでストレートな率直さ、それに伴う自然な風通しの良さと、ユーモアのある人々の良心が当たり前のように息づいています。そしてそれは、もう今では致命的に損なわれてしまい、見る影もなくなってしまったものです。
今のハリウッドのメーンストリームの映画は、「破滅」と「陰謀」「ショックバリュー」と、逆に分かりやすい「お涙ちょうだい」で満ち満ちています。加えてもう映画自体お金にならないと、ドラマが全盛でもあります。これからアメリカのショービジネスは、ひいてはアメリカという国はどのような没落の過程を辿るのか。人々はため息まじりに呆然と見守るしかないのでしょうか。
何はともあれロバート・ゼメキスは、80年代から90年代にかけて「バック・トゥ・ザ・フューチャー」と、この「フォレスト・ガンプ」を作ったのだ、と思います。好奇心と希望をガソリンに、作り手が誰より面白がりながら、最高の技術的な粋も尽くして、かつてのアメリカの素晴らしい面を一番楽しく、心躍るものに仕立てて私たちに届けてくれた。それだけでアメリカの、ひいては人類の宝に価するんだと、大げさでなく思います。
ただ善く生きるということの何よりの確かさ
フォレストには「欲望」がありません。「ただ善く生きる」ということだけがあり、目の前に降ってきたことに全力で集中する。何かを目指したり、何かを選んだりあるいは拒否したり、何よりも、何かを誰かをジャッジするということをしない。
普通、「賢く」生きるとは、最大限に利益を得て、経済的にも地位的にも幸福的にも人生で成功を収めようと思ったら、いわゆる「先見の明」じゃないですけれど、人が考えないことを考え、冷静沈着に目標設定し、自分がやることの意味をいちいち吟味し、そして常に努力を惜しまない。ひとつひとつ勝ち取って行く。それが「向上心のある人間」としてのベストな振る舞いだと、今の世の中ではおおむねそのように信じられていると思いますし、自分自身にもそのような傾向は多かれ少なかれあると思います。
でも、本当にそうなんだろうか?本当に?
この映画はそれを強力に問うています。私たちは何者かに踊らされてはいないだろうか。「あらゆる欲望を喚起すること」「レベルアップすること」「もっと、もっと、もっと」。そういったある種のイデオロギーは、誰かが「儲ける」ために仕組まれたスローガンだということだということを私たちは忘れ去り、あたかも真理のように頭から信じ込んでしまってはいないだろうか。
フォレストのありようというのは、そんな価値観に対する痛快なアンチテーゼであり、大きな気づきを与えてくれるものだといえます。
彼は積極的に何かを選ぶことはない。周囲の人々の要請に彼なりに精一杯応えるのみ。自分から人に近づいたり、あるいは見切って去ったりすることもない。彼は「うすのろのガンプ」だから、ほとんどの人から軽んじられて相手にされない、その中で彼をまともに扱い、愛してくれた縁ある数少ない人たちに対して、誠実な愛情で応えるのみ。その愛情は愚直なまでに一生涯揺らぐ事がなく、あるいはババのように死んでもなお揺らぐことなく、「その人」が優れた人か良い人か正しい人かなどということを、考えることもない。大統領だからととりたてて敬ったりおもねることもない。また「どの」大統領だからどうと考えることもない。誰にも平等に優しく礼儀正しくあるのみ。
彼が彼の人生において唯一自発的にやったことは「走ること」。それもベースにジェニーの「Run!Forrest,run!」という言葉があってのことなのですが。ただただ何年もひたすら走り続けるフォレストの行動に、色んな人々が勝手に色んな意味づけをしていきます。しまいには勝手にカリスマにされる。ある行動をそれと認識するためには、人は様々な理由付けを必要とし、意味の無いことをすることに耐えることができない。それらは現代人におけるある種の病の姿を見せてくれます。
白い羽毛の象徴するもの
映画の冒頭は、一枚の白い羽毛が空に舞うシーンから始まります。ふわふわと頼りなく風に吹かれて彷徨うさまは、あたかもなんの計画も計算もなく、場当たり的に生きて来たフォレストさながらに見えます。
長い長い話を終え、ジェニーも死んで、忘れ形見の息子と今の生活を紡いでゆくフォレストに至って映画は終わって行きますが、エンディングでもまた、冒頭の白い羽毛が風に舞うのです。
しかし、見る人にとってその羽毛はすでに全く違うものとして映っているはずです。
「善き心」を持って身をゆだね、何かをジャッジすることなく、自分の向いたことを人に喜ばれることを今ここに集中して最善を尽くす。その一瞬一瞬の積み重ねが人生なのであり、その積み重ねは、神の計画として、必ず収まるべきところに収まる。その人をそうあるべきところに連れてゆくのだ。真っ白な羽毛はフォレストの善き人生を守り祝福する象徴のように感じられるに違いありません。
フォレストが「頭が良くなかった」ゆえに起こった苦労の数々も悲しみも含め、映画はあたたかに歌い上げるように彼の人生を描きます。人は思うより選べないのだということと、取るに足らない身近な物事や身近な人を慈しんで生きることの大切さを、笑ったり泣いたりしながら私たちはこの映画を見て何度でも思い出させてもらうことができる。それは何て素晴らしいことなんだろうと思うのです。
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