観念的現実主義者の悲劇
非官軍・非幕府軍の英傑・河合継之助
幕末維新の英傑を挙げる場合、高杉晋作、坂本竜馬、大久保利通といった新政府側や土方歳三、勝海舟といった幕府側の人間の名前はよく挙がる。それに対し、知名度はやや下がるものの、その視野の広さにおいては何人が比肩しえたかという人物が越後長岡藩の河合継之助である。本作「峠」は藩の中堅官吏の子として生まれた継之助が、陽明学と出会いその観念性を青春の放浪の中で育み、同時に自身の中に流れるリアリズムをも鍛え上げながら、藩の執政へと上り詰める様が描かれている。彼の生きた時代は幕末の混迷期であり、藩の財政を危機から救った彼も否応なく新政府軍と幕府との争いに巻き込まれることとなる。そして北越戦争の中心人物として賊軍の汚名を被ることとなった。
司馬遼太郎にとっての陽明学
司馬遼太郎の作品に「陽明学」という言葉はよく出てくる。「知行合一(知は行のもとであり、行は知の発現である)」という言葉がこの思想のキーワードとしてよく取り上げられるが、朱子学に対抗する認識論を表すこの言葉は後の世において「知識と行動は合致しなければならない」という様に曲解されるようになった。司馬遼太郎も「知識と行動の合致」という点をとりわけ強調することで「陽明学」を描いており、彼の持ち味の人間論(悪く言えば強引なレッテル貼り)のエッセンスとしている。この「知行合一」を始め、彼は陽明学の理論については結構誤解している点が多いように思う。司馬が描きたい、思想に熱狂した人物というのは吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、乃木希典、そして河合継之助と確かに陽明学に触れた人物が多い。だが陽明学はあくまで朱子学に対する認識論・修身論であり、やや実践主義的な趣はあるものの、その思想そのものが革新的な、反体制主義的な人物を生み出すわけではない。「陽明学」自体にそこまでの力を持たせたのは司馬や政界の知恵袋だった学者・安岡正篤の功罪が大きい。ただ、「陽明学」を学ぶものが極端な思想家となる過程として自身を始祖・王陽明や学派の先達と重ね合わせることによるとした点は興味深い。「陽明学」の理論は曲げつつも、人が思想に熱狂し、それに殉じるまでを解明しているといえる。
司馬遼太郎の考えたリアリズムと思想との折り合い
司馬文学の根底にある、「歴史の潮流」が見える主人公と見えない敵サイド、バリバリの現実主義者なのに人生の最終的な価値判断においてはやけに思想・旧体制に殉じる主人公という図式は司馬自身の戦争中の陸軍での体験に根差している。「歴史の潮流」が見えず、現実主義であるわけでもなく、挙句の果てには戦争責任をろくに取らずに瓦全としていた軍部への憤りから、歴史上の人物を自身の考える現実主義と思想に殉ずる美意識とで描き出したのだ。司馬文学の登場人物の中でも3本の指には入るであろう、有能なリアリストである継之助は藩の財政を立て直し、その財を以て武器弾薬を購入し、一藩国として独立的に世界各国との交易を考える。しかし、新政府軍が北陸道に出現したことで北陸・東北諸藩の決起に継之助の長岡藩も巻き込まれることとなる。ここで継之助は長岡藩を石高に比し強大な最新鋭の軍事力を背景に武装中立し新政府・幕府両方の仲介を取ろうとする。この時点でだいぶ発想の飛躍はある、がまだ開戦も降伏もしていない段階なのであまたある選択肢のうち、他の人間なら考えも及ばないルートまで考えていたとみることもできる。彼が思想に殉じるのはその中立案が新政府により突っぱねられ、否応なく幕府側についたときである。この時点で彼の思考としては①本気で戦力的に新政府軍に勝てると思っていた②戦力的に新政府軍に勝てる見込みは少ないが、新政府側について隣藩を攻める先兵となるのと比べると戦うのがましと判断した、の2パターンが考えられる。司馬は武装中立案を河井が考えた時から彼が次第にリアリストでなくなっているように描いているが、河井は実戦において遺憾なくその有能さを見せつけている。司馬が考えるリアリズムが時として政略・戦略レベルから戦術、はては人生の価値判断までのどこを指しているのかを局面ごとに読み解く必要があるだろう。実戦・実務において有能なリアリストが時代の流れに逆らう図式は「燃えよ剣」も同じであった。ただ「燃えよ剣」の土方は無教養ゆえの実践主義で、自身の人生で会得した「武士道」に殉じるという形式であったのに対し、「峠」の継之助はバリバリの理論、書物から修身に励み、その独自の思想を以て全藩を戦争に駆り立てるというものであった。河井が作中で何度も口にする「人間は身分だ」という言葉から、「薩長に下ってその先兵となって隣藩を攻めて、保全されたところで長岡藩はそれでいいのか(そこに尊厳はあるのか)?」という考えが河井の胸中にあったであろうことがうかがえる。これは同時に司馬が考える昭和の軍部の形式的な精神主義と河井が思想へ殉じたこととを明確に区別しているのではなかろうか。
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