シリーズ上最も淡々としつつ、日常の事件が最も交錯する巻
一見静かなようで色々な事件が起こる日々
慈雨の音は著者宮本輝氏によると、松坂一家周辺の人間への慈しみが横溢していたと感じる巻ということから、その印象がタイトルに反映されているようだ。
事業を始めては潰し、転居を繰り返すという落ち着きのない人生を送る松坂熊吾にとって、この第六部は商売的には余り動きがなく、静かな巻だと言える。しかし、その分私生活で起こる様々な出来事は、シリーズ内で最もあわただしい。
大きな出来事としては浦部ヨネや香根、海老原太一と言った松坂一家と関わりが深い者たちの死だったり、小さな出来事として伸仁と動物たちの関わりで会ったり、箇条書きにしだしたらきりがないほどの出来事が凝縮されている。
フィクションとはいえ宮本氏が父の生きざまと自分の実体験を元にこの作品を書かれているのだとしたら、宮本氏が父上と過ごされた若かりし日々は、なんと多くの経験を積む時間だったのかと改めて驚かされる。また、サラリーマンであれば、年齢的にはそろそろ定年に差し掛かってもよい熊吾が、持病を抱えながらも現役の気力を維持している事にも感心する。
共に商売をしようとしていた亀井の病気発覚などのトラブルはあるものの、人生を切り開く前向きな姿勢に衰えを感じないのは、息子がまだ成人していないという父としての責任感に突き動かされてのことだろう。横暴そうな熊吾が慕われる理由は、動く原動力になっているものが人間愛だからかもしれない。
歴史の授業では得られぬ先人の感情
この巻でも大きなイベントである北への帰還事業の話などは、学校でも教えてくれない事実だ。
しかも、元々朝鮮半島の出身者の人たちだけではなく、その人と結婚をした日本人、その連れ子も家族として一緒について行った事例は衝撃的であった。この作品では伸仁が蘭月ビルで知り合った月村一家がそれに該当するが、伸仁と懇意にしていた月村兄妹の場合、帰還する父親が母親の再婚相手で実の父でない事もあり、渡航には気が進まなかったようだ。しかしそれを押して北に渡った人もいたのだ。
この一家をこいのぼりを使って見送るシーンは、この巻以降を読まなくても、社会情勢からおそらく月村一家とは今生の別れになってしまうだろうことが想定できるため、明るく送り出す姿が痛ましくもある。
教科書には掲載されていない多くの別れがあり、歴史の勉強でははかり知ることができない多くの庶民が体験した感情を知ることこそが、本当に歴史を学ぶという事なのかもしれない。
そういう意味では慈雨の音の月村一家との離別は貴重な歴史の証言であると言えよう。
熊吾の人の死の受け止め方
松坂一家は熊吾だけではなく、房江や伸仁も、比較的人生の変化には臨機応変に対応できるタイプで、学ぶところが多い。しかし、そんな房江から見ても、夫は人の死に対してドライだ、という評価をしているようだ。
熊吾は自分のことも含め、人はいつか死ぬものでそれが当たり前と思っており、情に深い割には懇意の人が早く死ぬような出来事が起こってもうろたえることがない。房江の分析ではないが、読者としてもやはり戦地で人の死を嫌というほど見てきた人間とはそのようなものかと感じる。
別巻でも熊吾の母らしき遺体が見つかった際も、熊吾より房江が義母に思いをはせる描写が圧倒的に多かった。しかし、伸仁の健康への気の使い方を見ていると熊吾が人の死に唯一うろたえるとしたら、それは伸仁の命にかかわることかもしれないと思う。
そんな中、海老原太一という、弟の様な、恩人の様な、ライバルの様な、大きな存在を自殺という形で失うことになる。すると意外にも、周囲に表面的に見せている態度とは裏腹に、熊吾が死を選んだ海老原の胸の内を分析し、彼に思いを巡らせる描写が非常に多い事に気づく。
戦地で多くの人の死を見てきたとはいえ、その死の大半は、自決より戦闘による死が多かったろう。覚悟はあっても自らタイミングを選んで死んだものではない。しかし、戦後の平和の時代に、自殺してしまうという行為は、さすがに熊吾にもショックな出来事だったと思える。それが天寿を全うした他の者の死と異なったインパクトを持っていたのだろう。
死んだ海老原に厳しい言葉を心の中で浴びせる熊吾の真の思いは、実に複雑で、愛情ある叱責のように思えてならない。
大きな出会いがもたらす転機
この巻では、偶然が呼び寄せた運命的出会いがまた一つ生まれる。熊吾が商売のために購入した土地の元所有者、チョコレート工場の木俣である。
商売で手に入れた土地での木俣との出会いも、また熊吾と木俣にとっては運命の転機となるのだから、本当に一見の縁もどう実になり花になるかわからぬと感じさせる。木俣のキャラは、どこか千代麿とも被るところがあり、後々熊吾は彼の商売を自分の人脈で大きくさせていく。熊吾が後に苦境に立つ中で、逆に運気を好転させていくのがこの木俣だが、木俣にしても千代麿にしても、熊吾は自分が苦しい立場になってもこの親友たちの幸福だけはずっと保証しているような気がするのだ。愛人が自殺していなかったらこの出会いもなかったわけだが、人間どんなきっかけが人生を変えていくか、本当にわからないものだ。
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