山本文緒『アカペラ』レビュー
ゴンタマとカニータ
この小説の視点人物は二人いる。崩壊しかけの家庭で、大好きな祖父との二人暮らしをあっけらかんと満喫している中学三年生のタマコ(通称ゴンタマ)と、その担任である三十代前半の「デモシカ」教師蟹江清太(通称カニータ)だ。タマコが「就職」と書いた進路調査票を提出したことがきっかけとなって、カニータはタマコに深く関わり始める。
物語はタマコ(ゴンタマ)パートとカニータパートを交互に繰り返しながら進む。二人の登場人物の視点から書かれた小説は決して珍しくないが、このゴンタマ・カニータほど絶妙な組み合わせはそうそうないだろう。
二人は中学生と担任教師という立場ではあるが、家庭環境もあってか大人びたところのあるタマコと、私服なら大学生にも間違えられるほど若いカニータは、学校内での関係に捉われないまっすぐな目線でお互いを観察している。カニータの目を通じて「もう子供ではないタマコ」の姿が、タマコの目を通じて「一人の人間としてのカニータ」が浮かび上がり、基本的には生徒と教師である二人の姿に少しずつズレて重なっていく。そこに、何とも言えない味わいがある。
また、この二人は様々な面で対照的だ。生徒と教師という立場もそうだし、育った家庭環境も、痴呆気味の祖父と二人放置されているタマコと、未だに母親から食べ物などを送ってもらっているカニータでは正反対である(独身男性としてそれほど珍しいことではないと思うが…)。勉強はいつでもできるとドライに割り切り、中学を出たら好きなことを仕事にしたいと考えているタマコと、そこそこの学歴を持って「デモシカ」で教師になったカニータという比較も成り立つ。
それぞれの「恋人」
しかしここではあえて、二人の「恋人」に注目したい。タマコの恋人は祖父だ。祖父は痴呆のためにタマコのことを初恋の人「まあこ」だと思い込んでいるし、タマコの祖父への感情は「お祖父ちゃんっ子」なんてものではない、完全な恋愛感情である。カニータにも彼女がいる。同棲はしていないが割とよく部屋に通ってくるらしい彼女は、カニータが仕事で忙しければヘソを曲げたり、結婚を焦って妊娠していないのにしたと騒ぎだしたりする。ちょっと面倒くさい気もするが、年齢的なことを考えれば気持ちは分かる。
このカニータの彼女が、というよりカニータと彼女との関係性が三十歳前後のカップルとしてあまりに平凡なため、そして物語の本筋にほとんど関係がないため、彼女はカニータという人物のリアリティを増すためだけにいるキャラクターなのではないかと思いたくなる。しかし、本当にそうだろうか。
タマコと祖父との関係は、恋愛として捉えるかぎり完全に「悲恋」である。歳が離れすぎていて、この先一緒にいられる時間は限られているし、何よりもまず近親というタブーが立ちはだかっている(実は血は繋がっていないのだが、途中までタマコはそのことを知らない)。そして悲恋に終わる二人が往々にしてそうであるように、この二人はラブラブである。それは何の障害もなく、「いつかは別れるかもしれないけどまあ歳も歳だし結婚するんじゃないだろうか」みたいな感じのカニータと彼女の生ぬるさとは対極にある。つまり、ここにもタマコとカニータの対照性が表れているのだ。絶望的な状況の手前ギリギリのところで輝くタマコの恋と、安全安心だが燃え上がらないカニータの恋。そう考えると、カニータの彼女は結構重要な登場人物かもしれない。
ラブホテルの夜
軽妙な語り口でぐいぐい読ませるこの物語の中で、頭をガンと殴られるようなショックを読者に与える展開が二つある。一つはタマコと祖父が肉体関係を持ってしまうこと。そしてもう一つは、「ハッピーエンド」に終わるラストである。
一つ目はとにかく大事件である。いくら直前に血が繋がっていないことが判明したとはいえ、長年祖父と孫として暮らしてきた二人がそんなに簡単に肉体関係を持てるだろうか。二人が血縁関係にないことは、タマコの母から明かされる。祖父がタマコを呼ぶ「まあこ」という呼び名は、祖父が駆け落ち同然で一緒になった前妻「真子」のこと。タマコの母は後妻の連れ子だったというのだ。ということは、祖父は物語後半のタマコとの「駆け落ち」のなかで、まさに青春時代の想い人との駆け落ちを再び体験したことになる。それは痴呆という病の招いた展開ではあるが、何だかちょっと幸せな、羨ましいことのようにも思える。そんな過去もあり、タマコを孫と認識できていない祖父はまだ仕方ないとして、問題はタマコだ。タマコ、それでいいのかと言いたくなる。
しかしそれは読み終わって冷静になってからの話。読んでいる最中は、祖父の行為を受け入れるタマコに何の疑問も違和感も抱かない。多分それがこの小説のすごいところなのだ。タマコだけではない。誰にだって後で考えれば「何であんなことをしたのだろう」ということはあるはずだ。けれどその行為は、それをしたその瞬間には誠実に、必死に、あるいは自然に、愛をもって選び取ったものなのではないだろうか。そんな瞬間をタマコと共に経験し、後になって「とんでもないことしちゃったな」と思えるのが、この作品の醍醐味だろう。
タマコのハッピーエンド
そして二つ目の衝撃、ラストシーン。脳血栓(になりかけ)で倒れた祖父は、決して楽観できる容体ではなかったにも関わらず、意識不明の状態を経て奇跡的に回復する。ただ意識が戻るだけではない。痴呆が治ってしまうのだ。それはタマコにとって、恋の終わりを意味する。
タマコが祖父から「まあこ」ではなく「タマや」と呼ばれる最後の場面はとても鮮やかで切ない。タマコの状況を客観的に見れば、家庭の荒れる原因だった両親が離婚してすっきりしたところだし、中卒で就職するという意志も貫いて上手くやっているし、この上で祖父が回復し、元通り仲のいい祖父と孫として支え合って暮らしていけるなら言うことはない。「(元)祖父との結婚生活」なんて壮絶なモノを背負い込むよりずっといい。すべてがあるべき場所に戻った、完璧なハッピーエンドなのだ。
でも、このハッピーエンドは切なすぎる。祖父はタマコ(「まあこ」だと思っていたわけだが)との結婚の約束を覚えていない。タマコと結ばれた夜も覚えていない。祖父と結婚する日を夢見て看病を続けたタマコの思いを知らない。意識のない間にタマコの繰り返したキスを知らない。
そしてタマコはそのすべてを、胸に秘めていなくてはならない。祖父はもう、タマコを孫として可愛がる普通の祖父であり、そんな祖父に自分たちが恋人同士だったことを告げるのはあまりにも酷だ。タマコはお祖父ちゃんっ子として祖父の回復を喜ぶしかない。失恋を、悲しんではいけない。
物語の最後、明るい病室でタマコの流す涙。誰もが祖父が元気になったためのうれし涙だと考えるだろうその涙に、どうしようもなく胸が痛くなる。
カニータの物語
この小説は明らかにタマコの、あるいはタマコと祖父の物語である。カニータはタマコ本人の言葉では表現しきれない部分を担う語り手として存在しているように見える。だがここでは、カニータを軸に物語を捉えなおしてみたい。
カニータは、主人公らしくぶっ飛んだところのあるタマコとは違って、ごく普通の人間である。タマコの友人たちのように、タマコの規格外なところをあっさり受け入れる柔軟性もない。「駆け落ち」のときにはタマコを助けてくれるものの、いまいちヒーローらしくない。
この、タマコを助けるときのカニータの心情描写は興味深い。タマコがなぜバイト先の店主ではなく自分を頼ったのかと一瞬疑問に思ったカニータは、すぐにその答えを見つける。自分はもうすぐタマコにとって過去の人間(卒業した学校の教師)になるが、バイト先はタマコにとって将来の就職先でもある。過去の人間になってしまう自分には弱味を見せてもいいと思っているのだ、と。
教師は学校にとどまり、生徒は旅立っていく。当たり前のことだが、教師の側のこういう自覚には、何だかほろ苦いものがある。どことなく、同じ作者の短編集『絶対泣かない』収録の「卒業式まで」を思い出させる(この短編では養護教諭が主人公である)。そして実際、卒業したタマコは就職先の古着屋に顔を出すカニータについて「もういいのに」と思うのである。カニータの「自分は相手にとって過去の人間になる」という自己分析は、決して間違っていなかった。
そう、カニータは結構賢い。そして賢いが故に、タマコのように向こう見ずにはなれず、タマコほどの情熱を持って生きられない。そんなカニータが、病院で祖父を案じ思いつめているタマコを思わず抱きしめるシーンは、この物語の影のクライマックスと言ってもいいのではないだろうか。カニータは自分のプライドの高さや、常に周りを見下していたことに気づき、教師になりたくてなったわけではないと告白し、腕の中のタマコに泣きながら謝罪する。タマコからすれば意味不明だが、カニータはこのとき、きっとわずかに救われているのだ。自分が安全圏から見下してきた、本当は見下すべきではなかった他人たち。一人一人、切実な背景を持って生きている他人たち。そんな他人たちの代表として、タマコがカニータの「すまない」という言葉を聞いてくれたのだから。
というわけで、この小説はタマコと祖父のめくるめく駆け落ちストーリーとしてだけではなく、カニータの地味ではあるが確実な変化の物語としても読むことができる。実に魅力的な物語である。
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