それでも生きてゆくために、加害者家族がすべきこととは
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「差別をなくす」のではなく「差別による苦しみを軽くする」には
人が罪を犯した時、本人が責められるのは当然だが、その家族まで差別されることは、本来ならあってはならない。親は責められることもあるが、例えば兄弟の場合、同じ親の下に生まれたというだけで、弟が兄の罪を責められるいわれはない。特に弟が未成年の場合なら尚更だ。
それでも現実は厳しい。差別は許されないというのが理想に過ぎないことは、過酷な差別の実態を思い浮かべればよくわかる。世間を震撼させた事件で、加害者家族が仕事や結婚をあきらめざるを得なくなり、命を絶つ場合もあると聞く。
この小説も例外ではなく、武島直貴は強盗殺人犯の弟というレッテルを張られ、音楽の道や恋愛、やりがいに満ちた仕事を断念せざるを得なくなってしまった。
そのような差別に直面しても、死なない限りは生き続けなければならない。ならば、どうやって生きていけばいいのだろうか。差別をなくすという理想の実現が困難であれば、せめて差別による苦しみを少しでも軽くするにはどうすべきなのか。この物語を契機に考えてみたい。
人生は元々理不尽なものだと知る
世の中には、何でも論理で割り切れると思い込み、ひたすら合理性を追い求める人がいる。しかし、果たして本当に、何でも合理的にいくものだろうか。
そもそも人間は、自分の意思とは関係なく、ある日突然この世の中に生み出される。
そして生きている間も、自分の意思で行動しているように見えて、根本的にはそうではない。パンを食べたいという意思に基づき食べているつもりでも、そのもとになる食欲という欲望自体は自分の意思で勝ち取ったものではなく、生き物に元来備わっているものだ。
さらに、どんなに死にたくなくても、事件や事故、病気や災害が突如襲って来て、亡くなってしまうこともある。逆に自殺したいと思っても、助けられて生きながらえることもある。
このように、人生の初めから終わりまで、根本的には自分の意思を超えて生きているのだ。つまり人生は、自分の意思に基づき合理的に生きようとしても、必ずしもそうなるとは限らないのである。合理性が尽くされないという意味で、まさに理不尽なのだ。
とすれば、強盗殺人犯の弟というだけで差別されるという理不尽なことも、残念ながら存在してしまう。
まさに、このことが大事なのである。人生は合理的であってほしいけれども、そもそも理不尽なのだと知ることに意味がある。それを認識するだけでも、必要以上に合理性を追い求めることがなくなり、無駄に苦しまずに済むはずだ。
たしかに直貴のようにまだ若ければ、それが頭では理解できても納得はいかないだろう。それでも年を重ねてゆくにつれて、腑に落ちる時が来るかもしれない。
理不尽さに苦しんでいるのは自分だけではないと気づく
そのように人生自体が理不尽だとすれば、自分以外の他人も、何らかの事情で理不尽さに苦しんでいるはずである。
台風や地震などの自然災害に見舞われる。事件や事故に巻き込まれる。若くして予期せぬ病気に襲われる。自分が就職する時に限って景気が悪化し求人が減る。数え上げたら切りがないが、自力ではどうしようもないことで、大変な思いをする人はたくさんいる。
強盗殺人犯の弟という立場を背負わされることも、理不尽さに苦しむという点では、災害などと本質的には同じと言える。
このように、理不尽さに苦しんでいるのが自分だけではないということに気づければ、「なぜ自分だけがこんな目に遭わなければいけないのか」などと苦悩せずに済むはずだ。
他人と同じであることに安心するという発想が、本当に正しいのかはわからない。それだけでは根本的な解決にならないのも事実だろう。それでも、本当に正しいのかわからないならば、少なくとも現在味わっている苦しみから逃れられるかを考えることが大事なのではないか。
後に直貴が結婚する由実子も、親の借金のせいで子供の頃から逃げ回る日々が続くという、自分のせいではないことで理不尽な目に遭っていた。直貴の彼女に対する気持ちに変化が起きたのは、事情は違えど同じように理不尽さに苦しむ人の存在に気づけたからだろう。もちろん、単に苦しむだけでなく、前向きに生きていく姿勢に心を動かされたこともあるに違いない。
いずれにせよ、狭い世界の中で孤独を感じていたところから、一筋の光明を見出したのではないか。
そうした他人と関わる中で支援者を得ていく
人間は同じ境遇の人に出会うだけでも、心の負担が軽くなるものだ。ただそれだけにとどまらず、苦悩を一人で抱え込まずに助けを求めれば、境遇を理解し支えてくれる人も出て来るかもしれない。
たしかに、自分が苦しんでいる様子を周りが積極的に察し、助けてくれることもある。しかし、出来る限り自ら心を開き、自分自身をさらけ出していったほうが、周囲からも支えてもらいやすくなる。
直貴も由実子の前では、差別に屈せず生きようとする姿勢と、差別の前で心が折れる様子をさらけ出していた。その必死で真摯な姿勢を見せていたからこそ、彼女は直貴の勤務先の社長に対し、助けを求める手紙を出すなど、様々な形で支えてくれたのだろう。
自分への差別を嘆くだけでなく、自分も他人を差別していないか反省する
これまでの人生を振り返ってみた時、例えば家計の苦しい家の子供に対し、馬鹿にしたりいじめたりしたことがあったとする。その後、自分が犯罪加害者の家族として、仕事やプライベートで世間から差別を受けたとしよう。
このように、過去に他人を差別しておきながら、いざ自分が差別される立場に回った時だけ不満を述べるのは、都合がよすぎるというものだ。
世間には、他人に対してブーメランを投げておきながら、それが自分に戻って来たらよけようとする人がいる。その姿を目の当たりにしたら、そういう人の言動に対し説得力を感じないだろう。とすれば、肝心の自分自身がそのようなご都合主義に陥っているとわかれば、差別への不満も少しは収まるはずだ。いや、収めなければならなくなる。
この物語からは、直貴が過去に誰かを差別した様子は読み取れない。ただ、仮にそうした事実があったなら、それを省みれば、世間による差別への怒りも少しは収まるだろう。
目の前のやるべきことを粛々とこなしてゆく
差別の末に何とか得られた仕事は、決して望まないものかもしれない。それでも、淡々と粛々と、目の前のやるべきことをきっちりこなしていくと、仕事への真摯な姿勢が認められ、スキルも身につき成果も上がる。それにより周囲に貢献できるようになれば、自分に対する信用も高まる。
そうなるように、そうした地道な取り組みを半年、1年、5年と続けてゆけば、様々な人との間で強い信頼関係を構築できる。
そうなれば、仮に何かの拍子で犯罪加害者の家族だと周囲に知られても、「その加害者とこの人とは別だ。この人はもはや我々にとって、また世の中全体にとってなくてはならない人だ」と思ってもらえて、社会の中で生きてゆける可能性が高くなる。
直貴の勤務先の社長が、「蜘蛛の巣のようなつながりを作ることで誰も自分を無視できなくなる」と諭したのも、このことを意味するに違いない。そして直貴も、今後の人生でこの地道な姿勢をどれだけ続けられるかで、自分の居場所を確保できるかが決まって来ると言える。
「言うは易く行うは難し」でも行うしかない
「たとえ犯罪加害者の家族でも差別してはならない」という理想をひたすら追求したいなら、道徳の教科書を読めばよいし、もちろんそれを否定する気はない。
ただ、どんなに頑張っても報われず、厳しい差別の前で心が折れることがある。そんな時に、それでも死なずに生きてゆくにはどうすべきか。
やはり、どこまで考えても絶対的な答えなどないとわかったうえで、自分なりの対処の仕方を見出すしかない。
もし自分が直貴の立場だったら、人生の理不尽さを知り、誰もが大なり小なりそれに苦悩していることに気づき、誰かに支えてもらいながら、我が身も省みつつ、目の前の仕事に粛々と取り組んでゆくしかないだろう。「言うは易く行うは難し」であることは、百も承知の上で。
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