リプリーのヒロイン像と共に、人類にとってエイリアンとは何かを追求した宗教的色彩を帯びた、悲愴なまでに美しい作品 「エイリアン3」
リドリー・スコット監督の「エイリアン」第1作は、「宇宙では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない」というキャッチフレーズがぴったりの、暗黒の宇宙をさまよう巨大な宇宙船の内部を、完璧な密室に見立てて、絶体絶命の「恐怖」を追求した作品だったと思います。
ジェームズ・キャメロン監督の「エイリアン2」のキャッチフレーズは、「今度は戦争だ」でしたが、これは無数のエイリアンが「女王」を中心に巣食う惑星で、人間対エイリアンの凄まじい死闘が展開される、まさに「ランボー」顔負けの「迫力」の映画でした。
そして、リドリー・スコット、ジェームズ・キャメロンに次いで、当時、新鋭だったデヴィッド・フィンチャーが監督した「エイリアン3」では、このシリーズのヒロインたる女戦士、エレン・リプリー(シガニー・ウィーヴァー)が、遂に「殉死」するのです。
この「エイリアン3」という映画は、リプリーのヒロイン像と共に、「恐怖」や「迫力」を越えて「人類にとってエイリアンとは何なのか?」という壮大なテーマを追求した、宗教的色彩すらたたえた、悲愴なまでに「美しい」作品だと思います。
「エイリアン2」のラストで、宇宙船スラコ号によって、からくも窮地を脱出したリプリー一行。だが、執拗なエイリアンは、船内に潜入しており、映画の冒頭でリプリーの体内に子供を生みつけてしまうのだ。そして、事故を起こした「スラコ号」は、とある惑星に漂着するが、そこはありとあらゆる犯罪を犯してきた、染色体異常者である男たちばかりが、強制労働のために集められた囚人惑星だったのだ。
スラコ号に同船していた12歳の少女と大尉は無惨にも事故死、リプリーの片腕だったアンドロイドのビショップも、修理不可能なまでに壊れてしまっている。
やがて、収容所に飼われていた犬を母胎として、新たなエイリアンが誕生し、次々と男たちを餌食とするが、収容所長はエイリアンの存在をリプリーの妄想と決めつけてしまうのだ。おまけに、囚人たちの暴動を恐れて、収容所には一切の武器火薬の類は装備されてはいないのだった。
これまでになくワイルドな状況の下で、この「エイリアン3」は、展開されていくのです。しかし、そのような状況での「恐怖」や「迫力」が眼目とされているのではなく、生まれながらにしての犯罪者であり、女性を欲望の眼でしか見ないような囚人惑星の男たちを一致団結させ、勝利へと導いていくリプリーの「女」であり、「母性」の存在である部分にこそ焦点が合わせられているのだ。
「女」と言えば、これまで男っ気のなかったリプリーは珍しく収容所内の医師と体を交わし合う。しかし、束の間の恋は実らず、彼はリプリーの眼の前でエイリアンに惨殺されてしまう。
ひたすら孤独に闘い抜くことだけを運命づけられたリプリー。皮肉にも彼女がはらむのは、幸福な愛の結晶などではなく、邪悪な生命体、エイリアンなのだ。だが、本当に邪悪なのはエイリアンなのか? もともと第1作目において地球の会社が、リプリーを含めた宇宙船ノストロモ号の乗組員の命を犠牲にしてまでも、エイリアンを地球に輸送し、生物兵器として利用しようとしたことが悲劇の幕開けだった。
エイリアンを単に宇宙の未知なる恐怖としてとらえるのではなく、それを利用しようと企む人間たちのほうこそ恐ろしいのだ、というのはこのシリーズの一貫したコンセプトだが、ラスト、派遣されて来た会社の医療班の人間に「手術してそいつを取り出せば助かるよ」と言われても、リプリーは「取り出して何に利用するの?」とはねつけ、両手を真横に広げ、すなわち十字架の格好をして溶鉱炉に真っ逆さまに落下していくのだ。
そして、腹を突き破って飛び出したエイリアンの子供、すなわち、人間そのものの邪悪さすらも、いつくしむようにかき抱いて、炎のただ中に落ちていくリプリー-------。
この彼女の姿は、神のお告げを聞いて聖戦を率いつつも、宗教裁判によって火あぶりの刑に処されたジャンヌ・ダルクのように崇高なまでに美しい。かつて、イングリッド・バーグマンは、自らジャンヌ・ダルク役を志願したと言われているが、「エイリアン3」の製作にも名を連ねるシガニー・ウィーヴァーは、1990年代のジャンヌ・ダルク-------エレン・リプリーを見事に演じ切っていたと思います。
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