吉田修一らしい若者の姿が風景とともに楽しめる作品
吉田修一の風景描写が生きている作品
吉田修一の作品の特徴は、なんといってもその風景描写のうまさだと思う。登場人物の周りにある木や通り過ぎる人々、食べ物やふいに地面に落ちているハンカチなど、カメラがパンするようにいろいろな景色をなめて移り変わっていく様子が実にうまく書かれている。登場人物が立っている位置は変わらないのに、その周りの風景が緻密に書かれている様はとても映像的で、吉田修一の作品の中で好きなところだ。
この「パーク・ライフ」もそのような風景描写が印象的な作品だ。主人公である男性の周りで起こる色々な出来事は詳しく書かれているけれど、彼自身の心理や思っていることはさほと深く切り込まれることはない。彼の発するセリフでその心情を推し量るくらいだ。この風景描写ほど心理描写を重きにおいていない、というよりは意識的にそれを避けているようにさえ感じられるこの手法は、吉田修一の作品でよく感じられることだ。そういう手法に対してのメリット、デメリットはあるけれど、今回のこの作品についてはメリットだけが感じられた作品に思えた。
間違って話しかけてしまった相手との意外なつながり
誰でも後ろに知り合いがいると思って、「なあ?」と相槌を求めて笑顔で振り返ったら全くの他人だったとか、何かを見ながら「~ですよね?」と友人だと思って話しかけたら他人だったとかいう経験はあると思う。今回のこの作品もその間違いで話しかけてしまった女性と始まった意外に長く続く友情の話がメインである。ただこの2人の出会いはそうやって間違って主人公である男性が話しかけたことから始まるのだけど、話しかけられた女性は彼に恥をかかせないように、知り合いのふりをするのである。ここがまた意外なポイントで、誰しもそういった対応に慣れていない分、主人公の男性が逆にぞっとしてしまったのもわからないでもない。でもそのぞっとした女性に再度出会ったときに走って声をかけにいったのはこの男性だし、それからも彼女とは昼休みごとに出会ったりしている。第一印象の彼女に対してぞっとしてしまった思いが最後まで生きることがなかったのが、いささか残念な気がした。なぜなら、第一印象でぞっとしたなら、彼女と会っている間のどこかでもぞっとすることがあってほしかったからだ。
個人的には物足りなく思った設定だった。
時々感じる軽はずみな言葉のチョイス
吉田修一の作品にはいいところはたくさんある。若者の生き生きとした感情や、もっていきようのない悩みや怒り、どうしたらいいのかわからない焦燥感など、そういうところはとても読んでいて感情移入してしまうところだ。
また前述したように、なんということもない町や公園、駅などの風景描写などはとても映像的で、私が吉田修一を読む理由のひとつがそれでもある。
にもかかわらず、どことなく軽はずみは言葉のチョイスが端々に感じられることもある。例えば前述した“ぞっとする”もそのひとつで、実際にぞっとしたならぞっとしたというような直接的な言葉でなく、態度で知りたいと思ってしまうのだ。他にも“涙がこらえられない”とか“あいつは今いい生き方している”とか、もちろんこの全てがこの「パーク・ライフ」で書かれているわけではないけれど、吉田修一の作品でそれを時々感じる。そしてその短絡的な言葉のチョイスが、どうしても物語に浅さと安さを与えてしまう。
そのような印象を受けた作品は決して少なくなかった。ストーリーの展開や勢いでついついそのまま読んではしまうのだけど、2回目に改めて読むとその印象は強くなる。
そこはどうしても毎回気になるところだ。
村上春樹と吉田修一
この2人を比べるのは意味のないことだと思う。それぞれいいところがあり、作品の印象も全く違うからだ。だけど、時々吉田修一の作品に感じる、いわゆる“スタイリッシュ感”が村上春樹の作品に感じるそれとどう違うのか、自分でも全く説明がつかないからどうしてだろうと時々思う。村上春樹の作品もややもすれば“外国文学のような”“スタイリッシュな”といった言葉で表現されることがある。だけど村上春樹の作品は個人的にはそう感じることはなく、吉田修一の作品にはそう感じることが多い。吉田修一の場合は特に“スタイリッシュ”な、といった表現がぴったり来るように思う。そしてそのいわゆる“おしゃれ感”が個人的にあまり好きではなく、どうしてもきちんと読めず、文章も眼滑りしてしまうような気がするのだ。どちらも“スタイリッシュ”なら、どうして村上春樹はよくて吉田修一がだめなのかわからないけれど、実際そう感じることは確かだ。
もしかしたら私の無意識下では、村上春樹の文章に感じるリリカルなところが心の琴線に触れ、吉田修一の作品はそうではないただの“おしゃれ文章”としてカテゴライズしているのかもしれない。
なぜこう思うかというと、悔しく感じるからだ。話に食い入るように読んでいるのに、このような軽いスタイリッシュ文章によって現実に引き戻される気分がどうしてもいやだからだ。
今回特にそれを感じたのは「Flowers」だ(タイトルで少しまずいかなと言う気はしたのだが)。ここで元旦(と言う名前の男性)がシャワールームで主人公の男性や他の社員たちに蹴り飛ばされる場面はかなり印象的なものにもかかわらず、意味もないような散文的な表現にどうしても現実に引き戻され、話にそれ以上入り込むことはなかった。
私は映画でも時にあるように、ミュージカル調のものがあまり好きではない。どうしてそこで歌うのかと、素に戻ってしまうからだ。その感じによく似ているのかもしれない。
あの表現が好きな人には好きなのかもしれないが、個人的にはあまり意味のないように感じられ、好みでないところだ。そしてあのような文章が時々垣間見られるところも吉田修一の作品でよくある。
主人公を取り巻く色鮮やかな風景描写
間違って声をかけてしまった女性との交流を描いた前半部分だけれど、その女性との出会いはともかく彼を取り巻く公園の色鮮やかさは素晴らしいと思う。道を歩く人々の顔や服装、ベンチに座って本を読んでいる人々、そしてその雑誌の色合いなどが事細かに描写され、まるでそこにいるような立体感を表している。食べているお弁当も、持っているカフェラテもなにもかもが生命感に溢れているように思うのだけど、それを見ているはずの当の本人はそこからどこかピントがずれたところで存在しているような、非日常感もなにかよい。また公園で小さな気球を飛ばし続けている老人の話がそこにスパイスを添え、余計に色彩にみずみずしさを与えているように思う。
やっかいな先輩との話である後半は、だれしも好感を持ちそうな青年元旦の抱えた闇のようなものが、徐々にクローズアップされていく様がどこか彼の異常性を際立たせ、新手のホラーのような趣さえある。
前述したシャワールームでの一件では、元旦に対して実は心を許してはいなかった主人公と共に同僚たちの思いがけない暴力性も見えた。男たちの荒々しさに火がついてしまったかのような、本人たちにもそんなつもりがなかったような暴力の描写は、そのままだとかなり読みいってしまいそうな興味深い展開なのだけど、それを描写する文章がいささかナルシシズムというか、言葉のためだけの描写というか、どうしても好みではなかった。恐らくタイトルである「Flowers」はここから来たのかと思わせるのだけど、個人的にはどうも受け付けない文体であった。
とはいえ、この本で気になったのはそこだけで、それ以外は実に主人公の周りの風景がその場に立ち上るかのような緻密な描写で、たくさん好きなところはある。だけど、一つ気になるところがあるとそればかり目に付いて記憶に残ってしまうのだから理不尽なものかもしれない。この本の内容の他を忘れても、その部分だけは覚えているだろうなと思った作品だった。
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