島本理生 ガチの恋愛小説 その秀逸さと稚拙さ
島本理生、初の書きおろし作品!
本作は2005年に発行されている。
島本理生にとっては初の書きおろしで、執筆開始当初に予想したより枚数が大幅に増えてしまったらしく、読者が呼んでくれるか心配した、というエピソードが残っている。
しかし出版されるとすぐにヒットし、2006年、宝島社の「この恋愛小説がすごい!」で第1位という評価を得た。
読んだ後で知ったのだが、近く映画化もされると言うことで、今後も彼女の代表作という扱いの作品であることは疑い得ない。
作者が書きたいことを、すべてを凝縮し(中略)たら、この本になりました、というこの時期の彼女を表す一作でもある。
わたし自身の感想としては、主人公二人の恋愛の描写や顛末は秀逸、しかし脇のキャラたちが上手く主題に絡めず邪魔、というところだ。
以下で詳細に分析していこう。
○○賞候補が多い島本理生
本作は山本周五郎賞の候補作になったものの、大賞は取れなかった。
上記の賞は、新潮社が後援する、いわゆるエンターテイメント作品に贈られるもので、文芸春秋社の直木三十五賞と同様のものと考えるとわかりやすいだろう。
その賞で候補ノミネートだけで終わってしまったことについて、彼女自身はエンターテイメント性の不足を理由と考えたようだ。
その時の選評を以下に紹介されているので、参照していただきたい。
http://prizesworld.com/naoki/senpyoYS/senpyoYS18.htm#authorK145SR
多くの選者は彼女のセンスを褒めながらも、まだ大賞のレベルではない、という観点で一致しているように思う。
島本理生はその後も川端康成文学賞や直木三十五賞の候補に選ばれ、芥川賞候補には三回も挙げられているが、新人賞系のものを除けば大きなタイトルを取ったのは2015年の島清恋愛文学賞のみだ。
これを惜しいと評価するべきなのか、しばしば候補に挙がることを、凄いと讃えるべきなのか、人によって判断は分かれるだろう。
しかし、私は後者であると言い切る。
島本理生はこの当時は純文学小説とエンターテイメント小説を明確に区別していなかったというコメントを何度かしている。
それは、特にジャンルを意識しなくても、大手の文学賞の候補になり得るセンスを持っているということの現れに違いない。
私は島本作品の中でも、本作こそ文学性の高さを評価されて良いのではないかと思う。
最近彼女は文学誌への掲載を辞め、今後はエンターテイメント誌で頑張ると宣言しているが、それを残念に思っているのは私だけではあるまい。
柚子の自殺について
後半に盛り込まれた柚子の自殺はショッキングであり、物語がここからクライマックスに向かうことを知らせている。
シーンの役割としては、泉を中心として両端にいる小野と葉山がこのショッキングな場面に同席すること、それと葉山が自分の責任を感じて落ち込むことだ。
それぞれの微妙な関係が決定的になるきっかけのシーンだが、この話の中でレイプ事件は本当に必要だったのだろうか。
柚子が何か悩みを持っていることは何度も伏線があるが、性犯罪に遭って自殺するという重い内容が、どうにもメインテーマにマッチしていないように私は思う。
葉山を落ち込ませ、泉にすがらせるきっかけとしての劇的な死が必要なのであれば、学校での悩みとか、母親との確執とかでもいいだろう。
あるいは、シンプルに交通事故でも良かったのだ。
泉も小野から一方的な性交を要求されるシーンが何度かあるので、女性の立場からの性との向き合い方の別のパターンを書きたかったのだろうか。
そうであれば、登場人物中で最も良好な関係を保っている黒川と志緒の性的な部分にも触れるべきだ。
何度読み返しても、柚子の死は本作の中の異分子にしか見えず、何故これを挿入したのか釈然としない。
ふと思い立って島本理生の年齢を調べてみたが、彼女は1983年生まれ、本作執筆時は21~22歳であったと思われる。
作中の泉と同年代であることは、無論偶然ではあるまい。
この事実で、なるほど、と腑に落ちたように感じた。
作者個人の性体験などわかるはずもないが、年齢から察するに、男性の性に対する欲望や固執を細かく理解しているとは思い難い。
彼女は本作執筆にあたり、恋愛がメインテーマと掲げたものの、まだ男性から見た性を書くことに自信が無かったのではないかと私は推測する。
しかし、大人の恋愛を書く上で、性愛は避けて通れない。
そこで彼女なりに探求した上で、男性キャラを性欲についてレベル分けして作って行ったのではないか。
その結果、葉山のように欲望をコントロールできるタイプと、小野のように上手く制御できないタイプに分類された。
小野が暴力的であることで、葉山の紳士性が浮き立つという構造だ。
恐らく作者としてはこの時点で、更に極端な性的暴力が存在することを無視できなかったのだと思う。
とは言え、小野に必要以上の悪人役を与える訳にもいかない。
結果として柚子が犠牲になり、そのバリエーションの極端な例としてこのレイプ犯が登場したのではないか。
本項の最初に書いたが、結果としてこの部分は奇妙に浮いてしまった。
全体に淡い水彩画のような本作に、油絵の具の濃いシミを落としたようで、本作中の最も残念な部分だと私は思う。
群像劇的な学園性も上手くまとまらず残念
島本理生は本作のメインは恋愛、と置きながらも群像劇スタイルを取っており、そのまとまらなさがせっかくの感動を盛り下げている。
舞台を主人公が卒業した高校という中途半端な場所に選んでしまったことで、同級生や後輩という主人公と同列の人物が多数存在することになったのがその要因だ。
例えば職場が舞台であれば、もっと周囲の人々との関係はドライに保つことが可能であり、主題である泉と葉山の愛がもっと深く語れたのではないか。
残念ながら本作において、脇のキャラの詳細な描写は物語を無駄に長くしたに過ぎない、そう私は評価する。
とはいえ当時大学生であった作者には仕方のないことであろうか?
単なるダメ出しではなく、良い部分が多いだけに残念と言わざるを得ない。
要約すれば、黒川、柚子、新堂、伊織は不必要なキャラだ。
存在していれば良い程度なので名前を与えるだけに留めるか、あるいはもっと物語に絡ませるか、どちらかにすべきだったと私は思う。
これら脇キャラに余計な個性を与えたことは、この時期に作者の構成力が未熟だったことを表しているし、生み出してしまった人物たちを生かしきれなかったのは想像力と文章力が不足していた結果だろう。
作者自身が2010年の改造社発行の雑誌、文藝のインタビューで本作について以下のように答えている。
当時の私に推敲という能力があまりなくて、「ここがいらない」みたいなのがわからなかった、と。
私が推測する「ここがいらない」は、前項の柚子の事件と、友人や後輩たちに必要以上の個性を授けた事だ。
クライマックスの泉と葉山の性交はとても美しい
いろいろダメ出しをしたが、本題である主人公二人の恋愛は非常に精密に仕上がっている。特にクライマックスの二人の性交シーンは本作中で最も美しい場面だ。
女性目線なので、男性から見ると過度に海、風、波といった比喩表現に頼りすぎた気もするが、前半から徹底的と言ってもいいほどお預けにしてきた場面であるだけに、読者はようやくの思いで溜飲を下げる。
物語の始まりで、別の男性との結婚を控えての回想と明言しているので、泉と葉山にハッピーエンディングが訪れないのは誰もが知っている。
おそらくこの夜が最後となるのだ、という共感が、このシーンの切なさを倍増している。
泉の目線で、性欲に突き動かされているのは自分自身であり、葉山はセックスという役割を演じているだけ、という部分もここまでの鬱屈を晴らす上手い表現だ。
無論、泉は性欲だけを求めていたわけではない。彼女は性交も含めた葉山の全てと共にいたかったのだ。
小野との望まない性交も経た後なので、その想いはひしひしと伝わってくる。
この後のホームでの別れのシーンも、恋愛もののテッパンとも言えるシチュエーションだ。しかし、以前は似たような状況で会えなかったのに、今回は葉山が立ち尽くしている、という演出で二人への共感が湧き上がる。
読んでいる人間も、分かれなければならないのにこの二人と離れたくない、そう実感するのだ。
そしてトドメのラストシーン。
全ては過去として気持ちを整理し、新しい道へと踏み出したかに見えていた葉山と泉。
しかし数年を経た今でも、変わることなく想い合っているというところでシンプルに泣ける。
そしてその感動を、安易に二人を再会させることなく演出した島本理生にも拍手を送りたい。
本作は、前述したような無駄なシーンも多いが、主軸である主人公二人の恋愛については間違いなく美しい。
今後も島本理生といえばナラタージュ、そう言われるだけの迫力ある作品だ。
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