デ・ニーロが揺れ動く正気と狂気の狭間で、現代の孤独な魂の救済を求める物語「タクシー・ドライバー」
この作品「タクシー・ドライバー」は、二つのプロットが錯綜するように絡み合っている。一つは、大統領候補の暗殺未遂、もう一つは、娼館襲撃。この二つの衝撃的な事件を、マーティン・スコセッシ監督は、1970年代前半のニューヨークの荒廃した精神風土の中で描き出すことに成功していると思う。そして、そのことに最も功績があったのは、ロバート・デ・ニーロの演技だと確信的に思います。
デ・ニーロは、ヴェトナム戦争帰りのタクシー・ドライバー、トラビスの役だ。彼は、選挙事務所で働くベッツイに恋をし、デートに誘うがうまくいかない。彼は元の不眠症の生活に戻る。そして、悪の氾濫するニューヨークで生き返るには、悪を一掃するしかないと思い込む。その結果、大統領候補の暗殺と娼館襲撃を企らむことになる------。
映画の前半は、二人の女性との出会いを描いている。一人は、大統領候補の選挙事務所に勤めるキャリア・ウーマンのベッツィ(シビル・シェパード)。タクシーの中から見初めて、デートに誘う。もう一人は、13歳の娼婦アイリス(ジョディ・フォスター)。トラビスのタクシーに逃げ込んできたところを、仲介者、つまり、ヒモの男スポーツに連れ戻される。この前半では、アイリスとのカットは数箇所しかなく、ベッツィとの関係の方が克明に描かれているが、デ・ニーロの演技はすでに精神のバランスの上を綱渡りするような際どさを見せている。
例えば、選挙事務所のウインドウ越しに、タクシーの中からベッツィを見つめるトラビスは、事務所の男が出てくると、すぐに逃げ出すようにタクシーを出す。このデ・ニーロの臆病さと陰湿な雰囲気がないまぜになって、正気だか狂気だか判別がつかない雰囲気を醸し出す。
また、その後、事務所を直接訪ねてベッツィの心の孤独を目の前で言い当て、デートを申し込むデ・ニーロは、決して狂気には見えないが、尋常にも見えない。事務所にはベッツィを好きな男がいるのだが、彼とベッツィは何も関係がないことを一目で見破るぐらいは、誰にでもできることだが、初めてのデートでポルノ映画に彼女を連れていく男は、あまりいないだろう。
しかし、デ・ニーロの正気と狂気が入り混じるのは、ニューヨークの暗部を話すところに最も鮮明に現われている。偶然に、タクシーに大統領候補が乗り込んでくる。そこで候補は、街の様子を尋ねるのだが、デ・ニーロはニューヨークの悪について話し始める。ニューヨークには悪が蔓延している。この蔓延している悪を一掃しなければならない。大統領にはそれができるだろう------。
ニューヨークの悪について思いを巡らすデ・ニーロは、完全にここではない、あちらに触れているとでもいってよい表情を見せる。それは、しかし、デ・ニーロの演技力もさることながら、スコセッシ監督の演出の腕の冴えもあると思う。デ・ニーロのタクシーを通して、夜のニューヨークのさりげない描写が挿入されていくが、それが鮮やかに"大都会の病理"を描き出していると思う。
たむろするストリート・ガール、暴力沙汰、ゴミの山、叫びながら走る黒人、少年たちのクレージーないたずら、男と女の痴話喧嘩------。それらの光景が、デ・ニーロのセリフと合わさって、正気であるはずの実感が、何か希薄な、むしろこの街では狂気でいることの方が正常なことのような気を起こさせる。デ・ニーロがさまよう正気と狂気の境目とは、まさにこの意識の逆転していく境目であり、それが、この映画全体のテーマを支えてもいるのだと思う。
そして、後半は、二つの事件へ向けて収斂していくことになる。相手にされなくなったベッツィとのこともあり、また直接話した大統領候補とテレビ演説をする候補が、偽善的に見えてきて、デ・ニーロは大統領候補を暗殺することが、ニューヨークにとって善であると思い込む。一方で、前半で数回見かけただけの娼婦アイリスをその世界から救い出そうとし始める------。
この映画の一つの見どころは、デ・ニーロが暗殺者として出来上がっていくさまが克明に描写されていることだ。索漠の疎外感と飢餓感は、腐敗した街への、社会への憎悪に転嫁して、彼は大小四丁もの銃を買いこみ、軍用ナイフを身につけ、日夜、殺人訓練に熱中して、それは"偏執の狂気"を帯びていくなそれらの銃を身につけるため、細工を施す。そして、鏡の前に向かって身につけた銃の操作を繰り返し練習する。これらのデ・ニーロは、悪を追放することなど忘れたかのように、また、何かにとり憑かれたかのように、のめり込んでみせる。
何事にもかかわらず、人がのめり込む状態は、そのこと自体すでに狂気だが、ここの、自らを暗殺者に仕立てあげていく、そののめり込みかたは、"ナルシズムの美学"に満ちあふれている。このナルシズムというのは、泉に映った自らの姿に恋い焦がれる、一種の閉鎖的な錯乱状態だが、ここでは、そのナルシズムから脱却する契機も描かれている。
マグナムを抱えるようにしてテレビドラマに見入っているデ・ニーロが、足でテレビを倒す場面。足を掛けていたテレビをゆっくりと向こうへ倒していく。そして、倒れた瞬間、テレビは破裂し、ドラマが途絶える。デ・ニーロが自己愛者から暗殺者へと変貌を遂げる一瞬だ。
ジョン・F・ケネデイ大統領、ジョン・レノンなど多くの暗殺には、ある種、快楽の香りがあるが、それは暗殺者の忘れていた自己愛が、暗殺によって再び満ち足りたものになっていくからだと思う。その暗殺者が生まれていく様は、ここのデ・ニーロに極まっている。
ただ、この後半部で残念なのは、大統領暗殺未遂よりも、アイリスの救済に的が絞られていることだ。大統領候補暗殺までのプロセスは、大統領候補のSPと意味のないやり取りをするシーンなど、克明を極めているのに、実際の暗殺未遂の瞬間と、その前後があまりにも軽く描写されている。
さらに、ラストシーンの娼館襲撃の残虐極まるリアリズムは、その描写の衝撃性ゆえに、大統領候補の暗殺未遂事件の影と意味を薄めてしまっていると思う。大統領候補暗殺未遂事件は、デ・ニーロの狂気の一つだったというぐらいの位置しか、作品の中で勝ち取っていないように見えるのだ。そのことで、作品全体の精神が別の方向をほんの少し向いてしまったような気がする。
大切なのは、大統領候補暗殺も、アイリスの救済も、同じ思想のもとで行われたということなのだ。幸か不幸か大統領候補暗殺の方は失敗に終わるが、アイリスの救済の方は見事に成功する。悪を追放するという、見方によれば単純にすぎる思想は、大統領候補暗殺が成功すれば、単なる狂人の犯罪で終わる。しかし、未成年者の売春行為を強要していた男を殺害し、彼女を救い出したトラビスは無罪、アイリスの母親から感謝され、しかも社会的にも英雄視される。つまり、大統領候補の暗殺を失敗したがために、トラビスはアイリスを救い出して英雄とみなされるのだ。そして、このこと自体の不条理さが薄らいでしまったのだと思う。
しかし、デ・ニーロの正気と狂気の狭間をさまよう演技は、この作品を、一種の"現代の孤独な精神の救済劇"にしていると思う。そして、救済のモチーフはアイリスを売春の世界から救い出すことに、直接現われているが、そればかりではない。前半で、不眠症で眠れずにいるトラビスは、自分の今の状態から何とか抜け出したいと思っている。そのためのベッツィとのデートでもあったのだ。
そして、後半になると、ニューヨークの悪を一掃することを自分の任務だと思い込むのですが、その仕事を遂行することこそが、自分を救済する道にほかならないのだと思う。この魂の救済には、いったん自分を殺して復活しなければならない。しかし、復活すれば、そこには超越的な世界が待っているのです。
ラストシーンのデ・ニーロの死んでしまったかのような描写の後、生き返り、ベッツィをタクシーに乗せても動揺することもなく、また夜のニューヨークに出ていくのは、このためだと思う。この作品は、ニューヨークの陰湿な現実と、その中にいる孤独な精神の拠り所のない"魂の救済の物語"でもあるのです。
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