我々は世界の悪夢を前にして、何ができるのか!
直木賞受賞作!
森絵都は文芸春秋社のインタビューで本作についてたずねられた時、何かを守ろうとしている人たちの話を集めた小説集が書きたいと思った、と語っている。
表題作だけでなく小説集として2006年に直木賞を受賞している。
当時の選者は、彼女の調査の緻密さとそれを纏めるテクニックを絶賛している。
これ以前の作品であるいつかパラソルの下でが候補に挙がったのみで終わっているので、満を持しての受賞、という言えるかもしれない。
一方、児童文学から一般文芸に転向して二作目での受賞が奇跡的に早い、と言われる場合もある。
私はこの早いという論調には異を唱えたい。
直木賞は確かに歴史ある賞ではあるが、言うなれば文芸春秋誌を販売するための商業性が高い賞である。
それならば、彼女が児童向けという一つのジャンルで築いてきた実績を舐めるべきではない。対象年齢が低いからといってそれを生み出すのが楽ということはないのだ。
セールス数のみで賞を取ったのであれば読者に迎合したものという批判もあり得るが、彼女はれっきとした文学賞のタイトルホルダーなのだ。
そのように気合を入れつつ、本作を分析していこう。
楽し気な作品たち
本作では前述したように何かを守ろうとする人が描かれるが、大別すると明るいアップテンポなものと、社会性がある少し重いものに分けられると思う。
まずはわかりやすいポップな作品からその良さを見て行こう
器を探して、は題材がケーキ作り、恋愛、と女性作家が得意としそうな内容だ。
これまで培ってきたポップな感覚が上手く出ている。
注目すべきはヒロミと弥生の関係性の見せ方だろう。
話の後半までは、実力はあるが気まぐれでわがままなカリスマケーキ職人であるヒロミに
振り回されて利用される弥生、という構図で話が進む。
読者もどこかの時点で弥生が反旗を翻すとか、自分なりの道を見出すことを期待する。
彼氏である高典が、ヒロミがいくつかの詐称をしているとほのめかしてからは猶更だ。
既に弥生に感情移入している読者は、ここが逃げ時だな、と思う。
しかしそれと並行して、若干高圧的で権威主義的な高典には全幅の信頼は置けない。
そこで忽然と弥生のこだわりが描かれる。
器、事務所の大きさ、ヒロミの仕事の仕方について、ここで初めて読者は弥生が振り回されていただけではないと気付く。
そう言えば彼女がヒロミに紹介されたシーンでは、学校が紹介した仕事をいくつも蹴っていた、という事実があった。
そうだ、弥生はこだわりの人だったのだ。
この攻守の逆転とも言える転換に、窯元で出会った若い男が急展開に拍車をかける。
黒い器とプディングの組み合わせに、性欲という言葉を思い浮かべる弥生に我々は戸惑う。
そうだ、彼女は情熱を感じれば行くところまで行く、アーティスティックな人間だったのだ。
同種の逆転は守護神でも描かれる。
ここでは合コンが趣味というチャラい男裕介が、単位を落としたくないばかりに伝説の代筆家ニシナミユキを探し出すというアウトラインを見せておく。さぞかし風変わりで偏屈な女性が出てくるのだろうが、しかしそれがボーイミーツガールの始まりなのだろう、などとゆるい青春ものを想像していると、物語は全く違う展開をする。
登場人物の二人ともが、文学にこだわりぬくタイプで、裕介は助けを求める方向性を間違っていた、という結論に至り、若干の今後の発展を匂わせはするが、ここでは恋愛ではなく同志として話が終わり、二人はそれぞれの場所へ帰って行く。
二宮金次郎のストラップという苦笑アイテムを残して。
ジェネレーションXもほぼ同様の語り口なので多くは触れまい。
若くて軽そうな男が、以外にも真剣に仕事と友情に向き合っており、それを外観で馬鹿にしていた自分が愚かだった。とはいえ相手の方もこちらを馬鹿にしていたがそれが見くびりだったと最後にわかる。
この3篇は同志との出会い、というくくり方もできると思う。
本気と本気は惹かれ合う、そういう話だ。
風に舞いあがるビニールシート エドの贖罪
さて、表題作である。
大変に重い話なのでどこから書くか迷うが、敢えて正面から書こう。
エドが何故東京で安息の日々を送れないのか、まずそれを紐解こう。
彼は裕福な家に生まれたが、幼少期から人肌のぬくもりを知らずに育った。
もちろん衣食に困ったことはないだろう。
しかし、安らぐという事を学ばないまま大人になった。
どのようにして難民たちと出会ったのか定かではないが、彼はその惨状と出会ってしまったのだ。
恐らく、日常の平穏を知る人間であれば、それを見なかったことにして、元の場所に戻ることも可能だっただろう。
だが、彼には帰る場所は無く、目の前には痛々しい現実があった。
その現実と比較して、彼の両親は裕福であり、しばしば食べ物を残したという記述から見えるように、おそらく必要以上の贅沢を日常としていた。世界の現実に出会ったとき、エドはそれを恥と思い、自分自身の持つ原罪と捉えた。それ故に彼はフィールドで贖罪を続ける道を選んだ。
エドの行動基準は物語が明かす通りである。上記はわかりやすく纏めたに過ぎない。
では、里佳は、何故フィールドへ行く道をあれほど拒んだのだろうか?
里佳の贖罪
里佳は愛するエドや尊敬するリンダから何度もフィールドでの仕事を勧められたが、常に断ってきた。
何故か?
無論、怖かったからではある。
衣食住の保証もなく、常に病気や銃撃の危険が満ち溢れている、愛する人との連絡もままならない、誰がそんな場所に志願して行くだろう。
結婚してからは、二人ともがフィールドに出てしまったら年に一度の面会すら叶わなくなる、そういう現実的な理由もある。
しかし、もっとわかりやすく言えば、彼女がフィールドに行かない理由は私たちがフィールドに行かないのと同じだ。
彼女は私たち読者と同じ、知識を持っていても、自分たちが関わらない異国の事としか認識できない人として描かれている。
無論、里佳は日常の業務の中で、資金集めやPRに尽力しており、私たちより難民の役に立っている。だがそれは直接見て、触れたわけではない。
目を覆いたくなるような写真や資料を見ることもしばしばあるだろう。
それでも尚、彼女が現地に行かなかったのは、他人事だったからなのだ。
しかし物語の最後に彼女は動乱のアフガンへ行くことを志願する。
それは、亡き夫エドへの鎮魂もあるだろう。彼が歩んだ道を自分も歩んでみたい、という思いもあるだろう。しかしそれだけではない。
それはエドを最後まで理解できず、安全な場所から声を掛けるだけだった自分への贖罪なのだ。
そしてもう一つ、エドが少女を守って死んだという事実と、この日本の平和をかけがえが無いと思う気持ちも背中を押したのだと思う。
エドが一時とはいえその少女にぬくもりを与えたように、自分も誰かに何かを与えられる。そう思ったのだと私は理解する。
この作品発表後に森絵都は太陽のうたという短編を書いている。
そこには難民キャンプに20年住む人の、どこにもたどり付けない現状が書かれている。
エドや里佳たちがどれほど頑張っても、そのような人たち全てが安息の中に生きられる日は来ない。
紛争は果てしなく興り、難民になる人々は後を絶たない。
無論現場に行くだけが救いを与えられる方法ではない。
我々は少なくとも、世界を覆う惨状を、まず知るべきなのだろう。森絵都は、里佳を通じてそう我々に告げている。
文学の力
表題作が重いのでそれに引っ張られてしまうが、他の作品もそれぞれの世界を生きる人々を描いている。
私は森絵都に、色々な世界を描く力があると思うし、おそらく作家たちは文学に何かを知らせる力があると思っている。そして出版社はそのような作家や作品を後押しすることで、世界に何かを伝えられる事を信じている。
それを踏まえての直木賞受賞だと私は信じる。
想えば森絵都は、児童向けの文学で、社会の残酷は確かに存在するが、それだけではない明るい世界がある、と教えている。
一般文芸に転向してからも、世の不条理を描きつつも、日常の些末な幸せを上手く切り取って私たちに見せてくれる。紛争、教育の問題、震災、彼女は社会的問題提起を続けて行くだろう。今後の新たな挑戦に期待する。
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