うつくしい人ってどんな人?
西加奈子の得意路線
西加奈子の小説には常に精神的問題を抱える人が登場する。
自分自身に対するコンプレックスや、精神疾患とも思える痛い傷を背負っている場合もある。
それを認めつつも、ダメな自分でもいいと思って生きていくというパターンと、ダメな自分を肯定も否定もできないまま、何一つ変わらない今を生きていく、というパターンに分けられると思う。
勝手ながら、私は読み手に希望を与える前者の作風を白加奈子、闇のみを提示して敢えて希望に走らないパターンを黒加奈子と呼んでいる。
本作は白加奈子の代表的一作だ。
主人公蒔田百合は上手く生きれない自分を棚に上げて、姉や旅先で出会う人たちを見下し続ける。
しかし、色々な体験と出会いで周囲の人々が、立派ではなくても悪くはないことに気付き、その延長で少し自分も肯定できるようになる。
主要な登場人物は全て問題を抱えており、一見ダメな人ばかりだ。
それぞれのキャラを考察することで本作の魅力を考察したい。
坂崎は愚鈍な中年男なのか?
彼は痛々しいほど痩せており、5年もバーで働いているのにジントニックすら作ることが出来ず、気が利かず、すぐ動揺し、しかし笑って見せるとそれに甘えて軽口をたたく。そんなどうしようもない中年男にしか見えない。
常に緊張して生きてきた百合には笑える存在でもあったが、付き合うような対象には絶対なりえないと思わせる男。
しかし話が進んでいくにつれて、この物語になくてはならない人になる。
人目を気にしないで生きること、出来ない事は素直に出来ないと言うこと、その究極が坂崎だ。その存在は惨めに見える場合もあるが、怯えて生きて来た百合を安心させる存在でもある。
彼に英語で物理学を教えるような技能があったとわかるのはかなり後半だ。
不器用だが無能ではない。特定の事はできるがそれ以外の事は全くできない。できない事へのコンプレックスはあるが激しい焦りや、それを隠したがるいびつなプライドもない。
その姿は百合に自然でいる事の心地よさを教え、周囲を気にすることをバカバカしいと思わせる。
百合の動揺や羞恥、突然のカミングアウトに気付きもしない、そんな彼の存在は百合に心を軽くするきっかけを与える。
マティアス、風変わりなマザコン外国人、金は有っても色気なし
キレイな白人と表現される彼だが、頼りない上に自主性が薄く、常識も無い。
彼はこの物語の中でどんな役割を持っているのだろう?
百合が自分の承認欲求が姉に向いていることに気付き、姉を必要としている自分自身を許すのが、本作が示す一つのゴールである。
坂崎は彼女に、ダメな自分でもいい、という事を自分自身で示した。
マティアスはどうだろう?彼女に与えたのは許しだろうか?
彼は人に対しては寛容ではあるがそれは生活にゆとりがあるためであり、成長の上で得たものではない。
人間は仕事、家庭、国、民族などの脱することができないしがらみが多いほど、そのはけ口を求める。
その力は、多くの場合弱い者に向かって流れる。
それがいじめや差別だ。
百合の姉はその力に押しつぶされ、百合はそれを恐れて強い側におもねる選択をした。
マティアスが自由で寛容でいられるのは、働く必要や国などに縛られないからだ。
彼は彼なりの問題を抱えている。どのように生きれば母の望みに沿えるか、言い換えれば自分はどう生きていくのか。
この悩みはシンプル過ぎて解決が難しい。
例えば彼が母の資産を受け継いでいなければ話は簡単である。考える前に、生きるために働かなければならないからだ。
働くという行為は何かしら他人との接点を生み、おそらく自然な流れで友人や愛する人に巡り合える。だが彼は何をする必要もない。
必要が無い以上自然な関係構築は無い。
そのような彼だから、「では、ベッドに行きましょう!」という唐突な誘いで性交ができると思うのも仕方ないのかもしれない。
百合との関係に戻ろう。
彼が果たした役割は目的が無い人生の空しさなのかもしれない。
彼女と恋愛関係に発展することもなく、別れのシーンでも「ずっと、ひとりぼっち」と呟く彼に、百合も心の中で彼はずっとこのままだろう、とうなずく。
彼は行くところも帰る所も持たない。
文章がさらりと流れるのでそんな気配は見えないが、考えてみると彼の位置づけは非常に残酷だ。
ただ母の願いを叶えたいだけなのに、おそらくそれは無理だろうと僅か数日で百合に看破されている。
しかし、彼は百合に帰る所がある幸せを教えた。
本作は、百合には希望を持てるエンディングで締めくくられるが、坂崎とマティアスはどこにも行けないまま終わる。
彼らはあまり何も持っていないように見えるが、実は与え続ける人たちなのだ。
姉は単なる落伍者?
百合の目線で物語が進むので、彼女はずっとイタい人として読者に認識される。
読者は普通の人であり、百合は普通の人であり続けようとしているので、百合の誘導に乗って、読者も姉を見下す。
百合は問題を抱えてはいるけれど、自分たちに近いこちら側の人、だが姉は異世界に行ってしまったあちら側の人、そんな錯覚を植え付けながら物語は進んでいく。
だが、心病んだ百合を癒す坂崎とマティアスは実は姉と同じあちら側の人なのだ。
姉は百合から見れば、無能な訳ではないのに空気が読めないために自分を窮地に立たせてしまう、いわゆる日常に不適合な人だ。
そしてそれは坂崎にもマティアスにもそのまま当てはまる。
彼らは実は姉の幻影なのだ。
話の前半で姉の姿は美しいと書き記されている。その部分を表すのはマティアスだ。そして親や社会の規範に従順というのも彼と姉の共通項だ。
一方、知能が高く、一定の能力を持ち、他人からどう思われても構わない、という面は坂崎が受け持っている。
百合は姉から逃げているようで、常に彼女と共にあったのだ。
百合は坂崎とマティアスといることをきっかけとして、自分の中の姉に気付く。
それはただ姉が好き、という気づきではない。姉は悪くなかった、悪いのは自分だったという単純な正義に基づくものでもない。
自分を満たしてくれる姉にそばにいて欲しい、姉がいれば安心する、たとえそれが通常社会から落伍したような姉でも。
ダメな姉を必要とする、ダメな自分が存在する、という気づきこそが百合がたどり着いた癒しなのだ。
「うつくしい人」とは固定の人ではない
西加奈子の発言をさがしていて、面白いものを見つけたので少し引用する。
ニューヨーカーマガジン社の2014年の記事だ
「サラバ」執筆後のインタビューなので本作の事について語っている訳ではないようだが、インタビュアーが西加奈子にとって「美しい人」とは?と聞いている。
その問いに彼女は以下のように答える。
「許せる人。(中略)自分の弱いところやあかんところも分かってて、それでもちゃんと自分に自信がある人」
最終的に本作では「うつくしい人」とはすべての登場人物を指しているのだろう。
それは有能な人とか、みんなに優しい人ではない。
特定の誰かを許せる人、つまりその特定の誰かにとってのみ「うつくしい人」なのだ。
例えばフェリーで会ったたっくんのお母さん、彼女は登場時は百合にはまねできそうにない頑張る母親なのだが、体調が悪そうな百合のためにタオルを犠牲にしてベンチを拭いてくれた時、百合にとってうつくしい人になった。
居酒屋のブリのように太ったおばさんはキレイな白人マティアスと化粧が取れた三十路女である自分に関心を示さず普通に接してくれた時。
つっけんどんなホテル従業員「K、MORIMOTO」は、百合と会話してホテルへのあこがれを示した時。
皆それぞれが誰かにとってうつくしい人なのだ。
前章でマティアスの人生は残酷なものだと書いた。
だがそれでも尚、マティアスは誰かにとってうつくしい人であり続けるだろう。
うつくしくあることはサクセスとは関係が無い。
自分がそこに居て良いと思わせてくれる人、それこそがうつくしい人なのだ。
本作が言いたいのはそういう事だと私は思う。
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