良くも悪くもファッショナブルな作品
苦手な表装の本だったこと
最近は図書館のシステムで読みたい本を予約して取りに行くだけのことが多い。直接図書館にいって気になった本を手にとり、その表装を眺め、中身をパラパラ捲ってといった一連の流れは楽しいのだけど、なかなかそういった時間が取れない。なのでこのシステムをよく活用しているのだけど、表紙のデザインが分からないため手に取ったらびっくりする時がある。
本の表紙のデザインは大事だと思う。内容は同じでも、昔とデザインが変更されていてがっかりする時もある(「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」の表紙がいつからあんな革靴になったのか)。そういう意味でこの本はもし手にとっていたら、すぐ棚に戻したかもしれないデザインだった。それはあくまで私の好みでないというだけで、気持ち悪いとかそういう意味ではない。
青い表紙の中にモノクロの若者の写真が配してあり、モダンというのかおしゃれというのか、スマートな感じではある。そして私はこういうおしゃれを意識したようなデザインの本が嫌いである。だからこそ自ら予約して手に取ったというものの、がっかりしてしまったことは否めない。そしてその直感は残念なことに当たることになる。
全部で5つの短編集
この本には全部で5つの短編が収められている。すべてのタイトルに「日曜日」が冠されているが、それほど物語には日曜日であることに必要性があるようには思われない。ただこの短編すべてに共通して登場する兄弟がいるのだけど、その兄妹にそれぞれの物語の主人公たちが出会ったのが日曜日なのかもしれない。そうじゃないかもしれない。今読み返してもあまりはっきりしないので、どちらでもいいことなのだろう。
この短編すべての主人公たちはそれぞれトラブルや悩みを抱えて生きている。無職、同性同士のケンカ、恋人からのDVなど様々だが、そのささくれ立った気持ちの中、なにやらその深刻な兄妹に出会いそれぞれ手助けをしている(唯一後味が悪いのは、旅行中ケンカして険悪なまま新幹線に乗り、指定席の間違いのために兄弟を車両から追い出した場面だ。あの話はいくら同性同士のケンカながらも理解できないし、そこにはなにかしら気持ち悪いものがある)。手助けや優しさを少しその兄妹たちにあげることができた自分に少し自信をもち、自分の気持ちに温度を持たせることができたような、兄弟の登場はそういう役割を果たしている。
ただそこにどうしても自分のためだけというか、いいことをしたら気分がいいといったような、自己満足の域を超えていないように感じる。確かに実際、そういう兄弟に出会ったところで自分になにができるのかとも思う。声をかけることさえできないかもしれない。だけどこの短編全てがあまりにもおためごかしに見えて、読み終わったあとにあまりいいものが心に残らなかった。
他の吉田修一作品との違い
初めて吉田修一の作品を読んだのは確か「東京湾景」で、現代の若者の描写が生々しくリアルで、うまいなあと思った。現代若者の軽さや悩み、またその考えの浅さから引き起こすトラブル描写も見事で、憎たらしいのにどこか憎めなかったりする(「パレード」は好きではなかったが。大体そもそも干渉嫌う若者がなぜルームシェアするのかがわからない。これは吉田修一の設定がどうでなく、そういう社会的事実が好みでないというだけの理由でもある。それにしてもあのラストは気に入らない)。「悪人」も殺してしまったことは動かせない事実ながら主人公には少し同情してしまったし、「最後の息子」も笑いがありながらすこし切なく、面白く読んだことを覚えている。「路」なんてきっと恐らく長い時間をかけて取材したに違いない緻密な描写に、長編にもかかわらず一気に読むことが出来た。しかしこの短編の主人公たちにはそういう魅力があまり感じられず、現代若者の悪いところだけがフィーチャーされているような、そんな印象を受けた。
この作品は短編であるゆえか、全体的に文章は軽く読みやすく、最後まで読みきれる力はあると思う。でも軽すぎて読み終わったあとになにも残らなかった。
前述した、おしゃれ表装だったことでがっかりした直感はここで当たったことになる。全体的にファッショナブルで、おしゃれ小説かという印象が拭い去れなかったからだ。
登場人物たちの魅力のなさと存在感のなさ
こういってしまうとあまりにもバッサリ言ってしまっているようにも思えるが、要は彼ら自身の行動や信念、存在感に深みというか奥行きのようなものが感じられないところが、全体的な軽さを底上げしてしまっているようにも思う。なんにしろ浅いというか、そういうイメージが拭えないのだ。前述した、同性同士でケンカして雰囲気最悪のまま満員の新幹線に兄弟と乗り合わせた女性グループの話など、ちょっと理解ができないものだった。女性同士で旅行して、おしゃれして街に繰り出すということがあったとしても、男の子を捕まえようねというような話になるものなのだろうか。もしかして私も千景のような性格なのかもしれないけど、類は友を呼ぶというか、似たもの同士でつるむのではないのかなと思ったりもする。そしてそこには強引に話を展開させようとするような違和感がある。ましてそういう展開になるうるような友情を描くには短編というのは短すぎるし、あまりにも情報が少ない。夏生の行動はほとんど千景にケンカを売っているようなものだし、とりなそうとする彩もあまりやる気が感じられない。このようなグループに千景が一緒に旅行に行くのも違和感があるし、いまだに彩と千景が交際が続いているのも変だ。もっといえば、千景の遭遇したアクシデントに対して彩がとった過敏な行動の意味もわからない。そういう意味ではこの「日曜日の被害者」が一番あまり好きでない話になると思う。
ラストの腑に落ちなさ、違和感
これらの短編に共通して登場する兄弟は、九州からはるばる母親を探してやってきたいわば虐待されて育った兄弟なのだけど、その成長ぶりは最後の短編「日曜日たち」で感じることができる。なのでこのラストの短編だけはなんとなくのハッピーエンドで、うまくまとまっているようには思う。だけどもどうしても読み方の感情を操作しようとするような、感動に持っていこうと感じる文章のため、何かしらどこかで白けた気分のまま読み進めることになった。
この短編の主人公である乃里子が、この兄弟たちに「絶対に助けてあげるから」とピアスをそれぞれに渡す場面がある。しかしその後何をしたということもなく結局兄弟は施設にいくことになり、挙句弟は里子に出され別れ別れになってしまっている。幼い兄弟たちにどのような約束をしたのか分からないけど、あまりにもその場しのぎの言葉ではないのかと怒りさえ感じてしまった。場面はその後現代に戻り、成長した兄のほうと会う。彼はその時にもらったピアスをまだ持っていたという感動の場面で、乃里子は「覚えてるの?」と彼に尋ねる。具体的に乃里子が当時の彼らに何をしたのかは書かれていないため想像するしかないのだけど、始めは彼らのために色々尽力したのかと思ったけど「覚えてるの?」という言い方だと、そう彼らと密接に関わったという印象はない。だとしたら本当にその時の言葉だけなのかもしれないし、ならその言葉だけでピアスを肌身離さずもっていたかどうかという疑問もある。
映画ならもっと視覚に直接的だからうまく突っ込めることがあると思う。でも本でもなにかしら違和感があると最後までそれはつきまとってくる。
吉田修一の作品を全部読んだわけでないので、それほどの彼の批評ができるというわけでもない。だけど今のところ、彼の作品は長編にこそその魅力があるように思う。それを確かめるために、もう一度他の短編と長編を読んでみようと思う。
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