何故にこんなに人気あるんだ?逆襲のシャア
これでいいのか?「逆シャア」私の不満
「逆シャア」、数多いガンダム作品の中でもいまだに結構人気ある。私も良いと思う部分もある。しかし富野作品特有のグダグダっぷりも鼻につき、どうも傑作とは思えない。良いことはいろいろ語られてると思うので、ここでは「うーん」と思うシーン、内容をあげる。
クエスの存在、必要?
正直に言う。いらないと思う!なぜか?
何年にもわたって描かれてきたアムロとシャアの最後の戦いなんだから、二人を描くことに専念してほしかった。これに尽きる。
ナナイやチェーンはいい。主役二人を引き立たせる存在だし、チェーンが待ちぼうけを食うシーンなどは緊迫の中に少しふわっとしたシーンを入れる意味がある。(チェーンが死ぬ必要は全くないと思うが・・・)しかしクエスはどうだ?両陣営を行き来することでそれぞれの裏事情を表すとか、シャアのララアへの思いを視聴者にわかりやすく伝えるとか、何か効果があればいいが、短い映画の尺の中で結構彼女に時間を割いているのに、何考えてるかわかりにくいわがまま娘が飛び回っているだけにしか見えない。はっきり言って邪魔だ。画像的にかわいい女子が必要だったのならチェーンをもっとかわいくすればよかったし、シャアのコンプレックスを語るならナナイの実体とララアの幻影で十分なはずだ。
ニュータイプになることで人は分かり合える、的な話も彼女はしているが、それならもっと分かり合うことを求める人間に描くべきだろう。結局ニュータイプになっても人は変わらない、と富野氏は言いたいのだろうか?それはしかし自らが作り上げてきたガンダム世界の全否定ではないのか?
後のレコンギスタあたりではプロットをまとめることもおぼつかない状態で老害とか言われているがそうではない。彼はもっと若い時から物語に一貫した意味を持たせることが下手なのだ。
私の記憶の中で一貫したテーマを彼が描けた、と思えるのはザンボット3、ファーストガンダム、イデオン、∀ガンダムこの4作品のみである。
クエスというキャラをどうしても出す、というのであれば、殺さずにシャアとアムロ亡き後、新世代ニュータイプ(変な言葉だが)として2人の思いをバランスよく結合し、未来を担っていく、とかやってほしかった。(そうであれば後の傑作ユニコーンはできなかったかもしれないが)
同じ理由でハサウェイもいらない。この役ってZのカツでもう見飽きた。おまけにチェーン撃っちゃうって、構成上何の意味があるのかさっぱりわからない。ダンバイン、Z、エルガイム、レコンギスタとかにありがちなとにかくドカドカとキャラを出してメンタル上の決着は付けない、なんだかよくわからんけど殺す、富野氏の悪癖の発露としか言いようがない。戦争なのでいい人も死ぬ、とかを語りたいのならケーラとアストナージで十分だろう。
シャアって何故こんなアホキャラになったんだ?
ファーストを見直してほしい。直接戦闘では常にアムロ:ガンダムに手を焼くが、戦術的には「2手、3手先を考えて行うものだ」と語り、常にホワイトベースに先手を取っていた。戦場を設定していた、といってもいい。ところが逆シャアでの彼はどうだろう。古臭い隕石落としとアムロとの決着に固執し、戦略、戦術、戦闘、すべてに矛盾が見える。
ファーストで「若さゆえの過ち」を自覚する必要を説いていた彼はどこに行ったのだろう。単に殴り合いをすればいい、というのであればコロニーで遭遇したとき、気が済むまで殺しあえばよかったのだ。互角のモビルスーツ戦がしたいならサザビーをもう一機作って送ってやるのもいいだろう。結局アムロに止められるかもね、まあそれもいいさ、でアクシズ落しを始めたとすれば、彼もザビ家と何ら変わらない。不毛な戦いで一般兵を死に導く無能な統治者に過ぎない。本気で地球の人々を宇宙に上げたいのならほかに作戦があるはずだ。地球の各所に核爆弾を埋め込んでいる、○か月以内に全員が宇宙に上がらなければ爆破する、と脅すとか。石ころ落しして人類虐殺、これが純粋な人のすることなのだろうか?私には知恵の輪が解けずに力まかせに引き抜く単細胞にしか見えない。主題歌「メビウスを超えて」は在りし日のTM Netwookの名曲だが、メビウスの輪もよくわからんから引きちぎってしまえ、的な馬鹿っぷりだ。あの明晰なシャアはどこに行ったんだ?
Zでのキュベレイとの戦闘の後、酸素欠乏症にでもなったのか?ってZの時点でもかなりイカレてた気はするが、Zでは「迷えるシャア」を描きたかった、と富野氏は語っている。しかし本作でも結局そのままかい!死ぬ前くらいかっこいいところを作ってやれよ、と言いたくなる。前述のクエス不要論はここに帰着する。あんな意味わからん小娘に時間使って、語ったのはシャアの純粋さとロリコン傾向くらいなら、その分を二人のここに至るまでの道のりや、戦略、戦術上の駆け引き、決着時の心の機微などに割いてほしかった。
それと細かいところだがもう1点、髪型が変わるのは理解するが顔の骨格が全然違うのは何故なんだ?年とともに変化もするだろうが、別人すぎるぞ。
アムロは何故チェーンの死に気付かない?
あまり語る必要もないが、何故?
結局富野氏の「殺すときに思い入れはいらない」、的な思想なのか、構成が下手で入れれなかったのか、あるいはやっぱりニュータイプになっても人は悲しいまま、と言いたいのか。
最後にいいシーンも書いとくか、と思ったが悪いシーンをカバーするほどのインパクトある内容が思いつかない。チェーンがふわふわ浮いてるシーンとフィンファンネル、「みんなの命を俺にくれ」くらいかな・・・
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