今こそ見直す価値ある作品
時代の精査を受けて名作となった作品
1999年アメリカ映画。久々に見返すと、現代を見事に予見しているそのテーマ性といい、どこを切り取っても痺れるようにスタイリッシュで格好良いフィルムならではの素晴らしい映像といい、ドライブ感のある編集や音楽といい、ダイアログの瀟洒さといい、ユーモアと純粋さの混じり具合といい・・・ああ、とにかく、20年近く前の作品とは思えないほど新鮮です。本当に良いものは決して古くさくならないものだと改めて実感します。
芸術は時間の精査を受けて評価が定まるものだと村上春樹氏が言っていたけれど、この作品はそれをまさに象徴するような映画と言えるかもしれません。公開当初はあまりの暴力性に非難が集中した上、興行収入も低く、製作費が全く回収できなかったこの作品は、今ではあらゆる「歴代最高の映画ランキング」において上位に挙げられないことはないほど、多くの人に愛されている作品になっています。
デヴィッド・フィンチャーは個人的に特に好きな監督のひとりで、毎回新作が出るたび楽しみに見ていますが、たまに遡ってこうした作品を見ると、なんだかんだでフィンチャーも丸くなったのだな・・と感慨深いものがあります。本作では実にいいかんじに狂ってます。映画のなかの空間が重ったるく、ねじれてくらくらするような濃密さで、フィンチャーがの最も脂の乗っていた時期の作品なんだなと再認識します。やはり脂の乗っていた頃のポール・トーマス・アンダーソンや、ダニー・ボイル的な狂気じみた圧倒的な勢いがあって素晴らしいです。
身体性に対する渇望を予見的に描く
人間はどんどん頭や情報や言葉だけで生きるようになって、身体性というものが著しく喪われている。喪われた身体性に対する渇望がこの作品の底流に力強く流れています。現在そのような傾向は全世界的に極まったものであり、もはや末期的な様相を呈していますが、「ファイト・クラブ」はそのような潮流をいち早く捉えたのだと言えます。
むしろ世の中の感覚に対して少し早すぎた。しかし無意識的にはその兆候は人々に迫り、危機的感覚をもたらしていたがゆえに公開当初は世論の強いアレルギー反応を引き起こしてしまったのではないでしょうか。そして作中、結果的にはたったひとりしか死者(太っちょのボブですね)はいないのに、これほどまでに作品の暴力性が取り沙汰されたのは、見る者に身体性、つまりどれだけ実際的な「痛み」や「恐怖」を体感させるかを念頭に置いて作品が作られたからであり、つまりは作品のテーマを見事に具現化することに成功しているのであり、当時の人々のヒステリックなまでの拒否反応は、ある種至極まっとうな「成果」であるとさえ言えると思います。
私が公開当初に見た時には、はたちそこそこで、理解不能なところも多々あったし、今も昔もスプラッタは大の苦手で、目を背けたくなるようなシーンはお化け屋敷さながらに目をつむってやり過ごしたりもしたので、内容を結構忘れていた部分もあったのですが、やはりこの映画は時代に先んじた部分が少なからずあったのだと思います。「今」これを見たら、不思議なくらいしっくりとコミットして見られたという感覚がありました。主人公のふたりが実は同一人物であったというくだりも、当時は何がなんだかとこんがらがっていたのですが、今ではすんなりです。それは年を取ったということ以上に、時代が変わったということが大きいと感じます。
日本の片田舎に暮らす自分自身ももはや相当に身体性というものが喪われており、バランスとしての身体性なるものを求めているのだろうと思います。そういった意味においても、この作品は「今」こそ見直される価値のある作品のひとつだと言えると思います。
唯一無二の魅力を携えたキャラクターたち
今回改めて見直してみて、意外なくらい笑いどころが多いのだなという発見がありました。もちろん怖い部分もあるのですが、思わず声を出して笑ってしまうような滑稽な描写が楽しかったです。フィンチャーらしいウィットの利いたダイアログの応酬でにやりとさせる部分もあり、タイラーがブルース・リー風にヌンチャクだの空手の型だのを披露するあたりは、完全にふざけてるよね、笑かそうとしてるよね、というノリで、フィンチャーの強気な若さのようなものが感じられて楽しかったです。
このように笑えることも戦慄することも、主演の3人のキャラクターの肉付けが実に優れていて、それぞれに今までに無い魅力的なキャラクター像を構築していることが大きく影響していると思います。
くたびれて不眠症でチキンで、でも狂気をはらんだエドワード・ノートン演じる「僕」。なで肩でだらしなく着たワイシャツの疲れた様といったら。そして真っ黒な隈に縁取られた目が睨み据える狂犬のような怖さと意外なほど気弱で優しい二面性をエドワード・ノートンは見事に演じたと思います。
ヘレナ・ボナム・カーター演じるマーラも、これまでにいなかったクレイジーに振り切れたヒロイン像で、この作品世界に完璧にフィットしていました。
そして、何よりもブラッド・ピット演じる、タイラー・ダーデン。完璧にクールな振る舞い、完璧にセクシーな肉体と声。汚物にまみれているのに、神々しいように美しい絶対的存在。それは「僕」の想像上の産物であるがゆえの完璧さなのですけれど、この映画のブラピは魅力的すぎます。
何はともあれ、タイラーにまた会いたくて、そしてラストシーンの資本主義の象徴のような巨大ビルディングが次々と爆破されてゆくなかで手を繋いでそれを見ている「僕」とマーラの頼りなげな後ろ姿をまた見たくて(なんてロマンチックなシーンなんだろう)、それだけのためにきっとまた見直してしまうのだろうと思います。
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