ウィリアム・シェイクスピアの傑作戯曲「ジュリアス・シーザー」
英雄となったシーザーの凱旋と、出迎えるローマの人々。競技の席では、アントニーが3度シーザーに捧げようとした王冠を、シーザーは3度とも退けます。しかし、キャシアスやブルータスは、シーザーの野望を危惧していたのです。そして1人の占師が、シーザーに呼びかける「気をつけるがよい。三月十五日を」という言葉--------。
このウィリアム・シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」は、確かにジュリアス・シーザーの暗殺を中心に描いた戯曲ではあるのですが、主役はジュリアス・シーザーその人ではないんですね。むしろ主役はブルータス。もしくは、その暗殺をめぐるブルータスとアントニー。もしくは群像劇といった印象です。
クライマックスは、暗殺そのものは、早い時点で終わってしまい、その後の市民を前にした、ブルータスとアントニーの演説合戦がクライマックスとなります。「私はシーザーを愛していた。しかし、それ以上にローマを愛していたのだ」と言い、自分の演説が終わってもアントニーの演説を聞くようにと市民を説得するブルータス。
それに対して、なかなか狡猾なアントニー。彼は決してブルータスを誹謗中傷はしません。それどころかブルータスの人格を褒めちぎります。しかし、褒めながらも巧みに市民の意識をずらし、シーザー礼賛にすり替えていくのです。もちろん自分の立ち位置のは安全圏に確保しています。
そして、アントニーの演説が終わった時、既に勝負がついているのです。ブルータスは世間知らずの育ちの良いおぼっちゃんという位置に成り下がってしまいます。この作品では、まるでシーザーの腰巾着のようにも見えてしまうアントニーですが、さすが弁論術の盛んだった古代ローマの政治家です。
ブルータスやキャシアスは、なぜシーザーを殺そうとしたのか。塩野七生さんの「ローマ人の物語」を読んでいても、今ひとつすっきりしない部分でした。そちらを読むと、まるでブルータスたちの行き当たりばったりの犯行で、シーザーの死は、全くの無駄死にだったという印象が残ります。
シーザーが、一手に権力を握ることを阻止しなければならないという熱意のみで、それ以外は、あまり何も考えていなかった行動だったように思えるのです。そして、この作品を読んでも「そうだったのか」と膝を打つところまではいきません。
終身独裁官となったシーザーに集中した人気と権力を面白くなく思い、そして危惧したというのも理解できますし、ブルータスが高潔な人物であり、その理想の道を進もうとしたこと、そんなブルータスを周囲の面々が利用したことはよく分かるのですが。
ここまで見事な演説合戦を繰り広げる作品なだけに、惜しい気がします。やはりその辺りをもう一歩踏み込んで描いて欲しかったなと思います。
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