ふんわりテイストながらもテーマはシビアな料金小説
食材を重んじる心
主人公・倫子は料理を神聖なものとして経緯を持って扱っているが、料理作中においてその敬意は調理工程と完成品だけでなく、食材にも払われている。
食事をすることは命をいただくこと、とは筆者も小学生の時に何度も聞かされたことだが、本書では改めて主人公がそのことに向き合っている。
畑から取れた赤カブの味が個体によって違う、と主人公が体感する場面がある。個体差があるということは、それが機械的でない、人間のように不規則な存在であることを意味している。
つまり、食肉用の動物だけでなく、野菜にも命のようなものがあり、私たちはそれをいただいている、ということなのだ。
その野菜を育てている人物も作中に登場する。これはただ単に物語の展開を広げるという役割だけでなく、料理が完成するまでの過程として描いている。
料理人だけでなく、食材の命とそれを育てる人や自然、それらのすべてが一皿の料理を完成させるのに必要不可欠なのだ。
主人公が天地や木々などの自然を尊ぶ場面が多いのも、食材は自然が育てるもの、ということを理解しているからなのだろう。
豚のエルメスを食すと決心した後、その解体の様子が細かに描写されていることからも、作者が『食事とは命をいただくこと』という普遍的でありながらも忘れられがちなことを伝えようとしていることが分かる。
豚さんも美味しく食べて欲しいって言ってるよ、なんて幼少期にどこかで言われた気がする台詞には、当時、私は幼いながらも懐疑的に思っていた。美味しい思いをさせるためだけに殺されたんじゃたまったもんじゃないだろうし、自分が豚なら人間を憎むわ、と。
生憎私は人間なので食べられる豚の気持ちは憶測でしか語れないが、少なくとも本望ではないだろうと思う。作中でもエルメスが解体の場で激しく抵抗していたことから、彼女が心底それを望んでいないことは明らかだ。
つまり食事とは人間のエゴでしかない。だからこそ、命を奪ったからには満足して、残さず(食材を無駄にすることなく)食べろ。この物語はそんなふうに読者に訴えかけているように思える。
主人公の独善性
この主人公・倫子は、独善的なところがあると思う。
料理にはどこまでも丁寧で、突然去った元恋人(財産を持ち逃げされたということは、最初から騙されていた?)への未練こそあれど彼を内心ですら全く罵ることもない、優しい女性のように思えるが、彼女の思いやりや価値観というのは、基本的に独りよがりだ。
愛する人を亡くし心を閉ざす老婆に珍しい料理を振る舞うことで、まだ見ぬ喜びへの好奇心を取り戻してほしい、と思う場面がある。
結果的にそれは成功するのだが、そのために老人にはそぐわぬ量と味つけの料理を出し、その様子が気になるからといって手鏡でこっそり覗き見るというのは、正直いかがなものかと思う。
自分の嫌っている『おかん』の家から何の罪悪感もなくへそくりを盗み出そうとしたことや、その愛人から受け取った祝い品を貶したりしたことから分析するに、自分が悪人だと思った人や嫌っているものには罰を与えても罪にならないといった、ある意味子供じみた勧善懲悪のような精神が根底にあるのが窺える。
けれどそう一筋縄にはいかず、おかんにも愛人にも、善性や同情の余地が見つかる。
自分はつらい人生を耐えて生きてきた、と自分だけが悲劇のヒロインのように思っていた主人公の価値観が、これによって一気に打ち砕かれたのだ。
おかんの病気を受け入れられない、という部分には母親を思う娘としての気持ちの他、上記のような『悪が悪ではなかった』というのを受け入れられない、という意味合いもあったと思われる。
倫子は、おかんの病気の話を聞いた時は暗い気持ちを抱えつつも店は通常営業をし、おかんが命を落とした後は暗い気持ちで店を開けずにいた。
料理は主人公にとって生きがいといえるほど大事なものであると同時に、現実逃避のツールだったのではないだろうか。
現に倫子が思い悩んでいる時ほど『私は作業に没頭した』といったニュアンスの記述が多かったように思えるし、病の話を聞いてすぐはまだどこかおかんと向き合うことから逃げていた、と考えることができる。後者で店を開けなかったのは、それだけおかん(の死)にしっかりと向き合えるようになったとう成長の証であるとも言える。
あと、これは余談な上に筆者の個人的な意見なのだが、作中ではよく化学調味料やインスタント食品が自然な食材との対比に使用され、命のないものとして扱われている。
確かに自然の中で育ったものではないが、それらも開発者や販売者等、また多くの材料が関わり出来上がった者には変わりがないのだから、それをないがしろにするのはどうかと思う。
それを含めて、主人公の独善的な性格の表れなのだろうか。
生きることへのエール
遠い初恋をずっと胸に秘めてスナックで働いていたおかんも、実は愛人の肩書きを持っていた幸せな祖母も、貧弱で淘汰されそうだったエルメスも、不幸な境遇にありながら最後は幸せになった身だ。
すべてを失った倫子だって、おかんへの見方も改まり、これからきっと自分の店で、大好きな料理の道で生きていく。
老衰や愛する人の死の死など、どうしようもないことはどうしようもないけれど、倫子の相手を気遣った料理はその人を元気づけ、心を動かすことで、その結末をほんの少し優しいものにした。
胸張って生きて、と作中の手紙の一文にある。終わりよければすべてよし。どうしようもないことはあるけれど、それでも根強く生きていればきっといいことあるよと、そんなふうに言われているような気がした。
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