吉田修一らしい文章が楽しめる中編集
大統領と閻魔ちゃん
登場人物のこの二人のネーミングだけで、このストーリーを読む価値があると思う。この本の最初に収められている「最後の息子」は、愛すべきオカマちゃんと彼女と一緒に暮らしている男性の話だ。ストーリーの目線はこの男性で、彼の一人称で書かれている。当事者のはずなのになぜか客観的に感じるのは、カメラを通して描写されている場面が多いからかもしれない。
「ゲイ狩り」と称して、無実の男性が公園で惨殺された。その彼こそが大統領というアダナだ。オカマの国を作る、大統領はアナタよと酔っ払った閻魔ちゃんに一方的に名づけられて以来のアダナなのだが、実にセンスがいい。閻魔ちゃんはもちろん、閻魔ちゃんの友達はマリネさんだ。いかにもな名前につい吹き出してしまった。このネーミングセンスのよさも吉田修一すごいなと思ったところだ。
閻魔ちゃんと主人公の彼は、時折日常生活を戯れにビデオに撮っている。その中には大統領も写っている。そんななんでもない日常でもカメラを通すだけでどこか映画のように感じるから不思議だ。しかもその描写がカメラを通しているときちんと読み手に伝わる吉田修一の文章力は、さすがだとも思えた。
わけもわからずに殺されてしまった大統領をビデオで見ているうち、主人公は閻魔ちゃんの言った言葉や仕草に思いを馳せたり、自分が若い頃の記憶まで思い出したりする。この作品は全体的にそんなとりとめのない、でもどこかしら切ない仕上がりになっていた。
閻魔ちゃんのためにダメな男を演じるということ
閻魔ちゃんに好かれるためにあえてダメ男を演じているという主人公だけど、実は自分自身がそのままダメ男だということには実は気づいている。そしてそんな自分を少し卑下しているところなどはとてもリアリティがあった。印象的な場面がある。ウェイターに声を掛けても声が小さすぎて気づいてもらえない時、そんな情けない男を持つ閻魔ちゃんが不憫になってしまうという敏感すぎる苦悩だ。その切なさはとてもリアリティがあり、好きな場面のひとつだ。
ただ閻魔ちゃんのために演出しているところがあるのは確かだろう。彼女のために人生はドラマティックであろうとし、あえてお金を盗み、あえて突然のプレゼントをして、サプライズを心がけている。
閻魔ちゃんを愛していないと言いながらも放ってはおけない苦しさとともに、愛情は確かにあるのだと思う。
ところで、わざとサプライズを演出しようと、閻魔ちゃんから託された店の改装資金を持って4日間逃げた時、高級ホテルの風呂に札を浮かべる場面がある。それがまったく楽しくなく、嫌な汗ばかりかいたと言う主人公のいかにも情けない描写も好きなところだ。その上、お風呂に浮かべた300万円は、1枚1枚ドライヤーで一生懸命乾かしたというのだから、この主人公も愛すべき存在だ。
吉田修一が描くゲイの人々のリアルさ
彼はゲイの描写がうまい。短絡的に言えば彼もゲイなのか?という疑問が浮かぶかもしれないが、そんなこと言えば「愛は乱暴」では主婦の心の闇がリアルに描かれており、彼は実は女性か?という疑問にもなってしまう。
吉田修一の作品では他に「春、バーニーズで」とか「怒り」にもゲイが登場する。その描写はとてもリアルで、彼らの気持ちをとても自然に感じさせてくれるものだった。もちろんゲイと「最後の息子」に出てくるオカマちゃんは少し違うのかもしれないけど、それでもこの閻魔ちゃんは魅力的だ。普通の女性よりも女性らしく、傷つきやすい。しかもあまりやりすぎるとコメディっぽくなってしまうところなのに、その加減が実にうまい。これは吉田修一の手腕だろう。
個人的に思うのだけど、吉田修一の作品では女性がそれほど魅力的でないことが多い。もちろん全部ではないけど、あまり好感が持てない女性が出てくることが多かった。
なのにオカマちゃんには女性らしい魅力を感じて好感が持ててしまうというのは少し皮肉なことかもしれない。
「最後の息子」の意味
主人公は閻魔ちゃんを母親に会わせようとする。会わせてどうなるのか、その先まではきちんと考えていない様子だったけど、その気持ちはやはり誠意と優しさから生まれていると思う。当然動転しながらも何とか会おうという気持ちを見せていた閻魔ちゃんだけど、結果彼の前から姿を消してしまった。「あんたをその家族の最後の息子にする勇気はない」との言葉を残して。この言葉の意味が実に深い。自分と一緒に暮らし続けていくということはそういうことだということを主人公に付きつけ決意をうながす言葉だ。そして自ら姿を消した閻魔ちゃんの懐の深い愛情を感じることができた。
閻魔ちゃんがいなくなってしまった部屋で、主人公は今まで撮りためていたビデオを見返している。ラストシーンが冒頭につながるいい場面だ。それはまるで映画を観ているように感じた。
ところで、「春、バーニーズで」で、バーニーズで出会った二人はこの二人ではないだろうか。ふとそんな気がした。
母を亡くした兄弟のその後の人生
この作品で出てくる兄弟は幼いころに土砂災害で母親を亡くしている。その描写は胸が痛い。小さな息子たちを守るため、母親は声を出さずに流された。衝撃的な場面だ。
そこから時がすぎ、二人とも立派な青年になっている。ただ立派なのは体だけで、やっていることはなんとも危なっかしい。兄の大海の恋人はブランドもののカバンが欲しいというつまらない物欲のため、テレフォンセックスのバイトをしている。弟の岳志はもっと危なっかしく、スナックで働いている女性にいれあげ、ストーカーのようになっていた。
大海の恋人はかなり異常だ。恋人である大海の目の前で性的な会話を平気でするところが、仕事とはいえ、並の女性ができるものだろうかと思う。それは、別れるつもりで相手にその言葉を切り出させようとしているようにしか見えない。好きな男性の前では絶対できない行為だろう。それに気づいているのかいないのか、さほど怒りを見せない大海は何を考えているのだろうかと、こちらまで憤りを感じるくらいだった。
岳志はもともと過度に保護欲が強いのか、女性を守ろうと言う気持ちが大きい。そのため過去にトラブルを起こしたこともある。今回もスナックの女性が不憫に思え勝手に金銭まで与えようとしていることが、逆に相手の怒りを買っている。お金を巻き上げられずにすんでいるだけでも、彼にとっては良かったと思う。が、本人はそれに気づいていないだろう。
この作品は、母親の死ぬ衝撃の場面から始まるが、兄弟たちはさほどそれを教訓とかにせず、普通にだらしなく生きているところにリアリティを感じた。
岳志が作っている妙な家やそれに夢中になっている気持ちの描写は、吉田修一の「ランドマーク」を思い出させる。自分のアイデンティティをああいう形で示そうとしているのは、実際あれとよく似たことなのかもしれない。
哀しい母親の狂気に付き合う子供たち
このストーリーも死がテーマだ。主人公の凌雲の兄、雄大はバイクで死んだ。母はそれを認められず、精神に異常をきたしてしまった。そして母はまるで兄がまだ生きているように振舞う。凌雲の友達を兄に見立ててしまったのだ。兄に見立てられた友人は、そのたびに兄の振りをしてくれるのだが、それが凌雲にはどれほどいたたまれないことだろう。そして、自分がまだいるのに現実に戻ってこない母親を時にはうらみ、愛情をひどく求めたに違いない。
彼たちは水泳部の部員だ。日々練習をしながらも思春期特有の悩みに顔をつきあわせ、青春真っ只中に生きている。そんな彼らがそのような重い場にいることだけでも痛ましく感じた。
またこの作品のもうひとつの肝は水泳の描写だ。吉田修一らしい卓越した風景描写のおかげで、とても映像的だ。それは水音や塩素のにおい、彼らの息苦しさえ感じることができるほどだった。
少し前に谷村志穂の「空しか、見えない」を読んだ。それも水泳がテーマで、その描写もとても映像的だった。しかしそれとはまた違った味わいで、作家が違うとまた違った表現になるんだなと当たり前のことに気づいたりもした。
3つの物語の中で一番印象深いのはやはり「最後の息子」だろうか。他の2つは忘れても、閻魔ちゃんのことだけは忘れないような、そんな作品だった。
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