若者の若者らしさが生き生きと感じられるドラマ
目次
途方に暮れている女性の意外な素顔
まるで香港映画のような狭い路地にある雑居ビルの階段にうずくまる美月の途方に暮れたような描写から物語は始まる。しかもその胸には赤ちゃんまで抱かれており、いかにも非常事態を感じさせる。またその描写からはむっとした熱気を感じる上、美月が座っている階段には室外機がありそこから熱風が吹き出してくるというつらさだ。その熱風が赤ちゃんに当たらないように姿勢を変えながらどうしたらよいのかわからないようなその様子は、読み手を十分ハラハラさせる。だけど読んでいくと分かるのだけど、この美月という女性、どういう事態になってもそれほど深刻にならない。楽観的というか物事をあまり深く考えないタイプなのか、この時もディズニーランドのことを考えていたりする。こんな美月が初めはなんだかイライラするのだけど、読むにつれだんだん彼女に好感がもててしまうから不思議だ。
そんなところに座り込んでいる美月を初めて見た純平も最初こそぎょっとしたものの、成り行き上自分の部屋に泊めることになる。この時の美月の反応も実に鈍く、泊めてもらっていながらも純平の話よりもテレビに夢中になっている神経の図太さは、純平ならずとも少し頭が弱いのかなと思ったりもした。また今日初めて出会った男性の部屋に夫の朋生が住んでいたといえど、のこのことあがりこむのはあまりにも危機感がなさすぎるとは思ったけれど、この行動も美月ならではだろう。
純平と朋生の兄弟のようないい関係
この2人の友情は読んでいてどこか心地よい。暑苦しくなく、淡白すぎず、ぬるすぎず、仲のよい兄弟のような関係は見ていて(読んでいて)とても微笑ましい。しかしおせじにも決して頭がよさそうには見えない2人が轢き逃げ犯を脅迫しようだなんて、最初からそのような計画は失敗するとわかっているようなものだったのに、轢き逃げ犯である湊のマネージャー夕子が関わってくることで話はどんどん大きくなっていく。そして話がどんどん大きくなっていくにつれ、この2人の悪そうなところがどんどん抜けていっているようにも感じた。美月と知り合ったころの純平にしろ朋生にしろ、怖くはないにしろチンピラのような柄の悪い雰囲気はあったし、後をつけてきた夕子を拉致しようとしたときは、それなりに迫力があった。それがこの計画の核を夕子が握るようになってからは、2人はまるで子供のような邪気のない男の子になったように思う。
それはもともと歌舞伎町という夜の街が2人をそうさせていたのか、それとも何も持たない二人の唯一持てる武器だったのかもしれない。強く見せる必要がなくなって初めて年相応の男の子になったのかもしれないと思った。
純平と朋生、美月に関わってくる人々の個性の強さ
湊のマネージャーである夕子のマネジメント能力の高さには敬服する。朋生などは憎たらしく“おばさん”などと呼んでいたけれど、特におばさんと感じさせる描写もなかったので、実際の印象はそれほどでもなかった(もちろんあの年齢の男性からすると年上の女性はすべておばさんになるのかもしれないけれど)。そんな夕子が人に関わるとその人はたちまち持っている能力を開花させるか、その能力を最高値まであげることができるのだ。これはすごいと思う。そして彼女の夢は政治家を育てることということ自体が彼女の性格と優秀さを物語っている。しかもその野望の対象が純平だったことがよい。占い師に見てもらいながら育てるべきは純平だと気づいたときのあのパズルのピースがはまっていく描写はとても気持ちが良かった。
また純平を放っておけないのは、純平が働いていたクラブのママである美姫も同じだ。店を辞めた後もなにかしら連絡を取り合い、後は知らんと言いながらも面倒を見てしまうのはなにも美姫ママの性格だけでなく、純平の気質もあっただろう。しかし純平の危なっかしさにハラハラしている美姫ママの表情は母親のようにも姉のようにも見えた。
またうまいなと思ったのは美姫ママの夫である高坂が、ぶっきらぼうにしながらも、純平に世話を焼く美姫ママをヤキモチのような気持ちで見ていることだ。なにも親子ほどの純平に嫉妬しているわけでなく、美姫ママが死に別れた夫に純平が似ていると昔につぶやいた一言を忘れずにいるから複雑な気持ちでいるのだ。こういう出来事を絡めてくると物語に一気に深みがでてくる。元夫の描写もそこかしこにあったので尚背景が理解しやすく、このあたりは好みの設定だった。
議員を目指す純平を取り巻く人々
あまり登場人物が多すぎるとストーリー自体が浅くなってしまい、いわば“風呂敷を広げすぎた”感を感じてしまうことがあるけれど、今回の作品に関してはそれを感じなかった。それは恐らく無関係の人々が出てくるのではなく、皆がそれぞれどこかでつながっているからだと思う。しかもそのつながりが渦巻状に感じられる。それもストーリーに深みを与えているところだ。
そして、湊の兄の子である友香が祖母の家に行き、そこで活動している純平と出会い、友香が純平と湊を出会わせ、などと出会いの妙もこの作品の深みの一つだ。
気持ちよかったのは純平を脅迫していた垣内を美姫ママがあっさりと片付けたところだ。敵を片付けるには味方にするのが一番とはよく言ったものだけど、これも美姫ママと高坂の人脈があってこそだと思う。純平を取り巻く人々がそれぞれ純平に役に立つ方法で役に立とうとしているのは、読んでいてとても心地よいところだった。
心理描写を描写でなくセリフにすること
また吉田修一の作品では風景描写は巧みだけれど登場人物たちの心理描写がないことが多い。今回の作品も風景は繊細に緻密に描かれており、それこそ美月の座り込んでいた雑居ビルの階段の汚れ具合や、レストランで湊の両親を苛めぬいた夫婦の様子など、映画を観たように頭に蘇る。それはそれで悪くないのだけど、物語によってはどうしても浅く感じてしまうことが多かった。しかし今回は複雑な心理描写があるわけではないけれど、それぞれの登場人物たちの心の声が描かれている。純平なら秋田弁、美月なら五島の言葉と方言で語られるそれは、十分それぞれの思っていることが感じられて同調できた。ただ心の声にしてはきれいすぎるのではということも感じたけれど(心の中で“だーいすき”とか言うかな?とか)、まるっきりなくって感情移入できないよりは良かったと思う。
少しもやもやを感じた場面のいくつか
結局行方不明のまま終わった轢き逃げ当時の重要書類は、そのままでいいのかなと思ったところだ。いくらないといっても引き下がらないからと共倒れの道を選び純平を議員にしたのはいいけれど、それは結局あまり明るい未来ではないように思ったのだ。ないものはないのだし解決のしようがないのかもしれないけれど、もう少しすっきりとした結末であって欲しかった。
またそんな賄賂の書類を手段を選ばず探そうとする早乙女はなんだか堂々とした政治家ぶりで、悪人ぽくなかったところも腑に落ちなかったし、逆に夕子の仇とも言える徳田がチンケな田舎議員といった感じで、それほど悪さもあくどさも感じなかったところも残念なところだ。
とはいえ、これだけのたくさんのストーリーをまとめあげて最後大団円にもっていく展開はさすがだと思う。またそれぞれに描かれた若者の生き生きとした様子も吉田修一らしいところだ。
ただタイトルになっている「平成猿蟹合戦図」。なぜこのタイトルなのか、わかりそうでわからない。そういう意味ではなんとなくもやもや感が残ってしまった。
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