日本の新幹線が台湾を走るという壮大な夢の実現
吉田修一のイメージとは少し違った作品
吉田修一の作品は「東京湾景」や「7月24日通り」のような現代若者の恋愛や生活、心理などが生き生きと描かれる作品、「悪人」「怒り」のようなサスペンス、スパイものの「太陽は動かない」などジャンルは様々あるけれど、この「路」はそのどれにも属さない新たなジャンルのように思われる。個人的には吉田修一の作品の中で、好きな作品のひとつだ。
この作品を書き上げるのに多くの取材の時間を費やしたように感じられる。今の台湾の町並みや風景はもちろん、新幹線が走る前の風景などの描写は目の前にその光景が広がるようだ。吉田修一の作品の特徴の一つに、風景の描写のうまさがあると思う。もっと言えば、人物の心理描写よりもそちらのほうがうまいと思う。今回も流れていく風景のひとつひとつ、台湾の町並み、屋台のにぎやかな様子が丁寧に書かれており、自分が本当に車窓から見ているような、スクーターから見ているような、そして台湾を歩いているようなそんなような気にさせられた。
少しイメージが似ていながら国は違うけれど、タイが舞台の「元職員」というのがあった。これも風景描写は素晴らしかったが、登場人物にあまり魅力を感じることがなかった。けれど、この「路」は登場人物それぞれがきちんと書き込まれて深みがあり、好感の持てる人物がたくさんいたこともこの作品のいいところだと思う。
一つの目標に向かって走る様々な人々
台湾に日本の新幹線を走らせるためにたくさんの人が奔走する。新幹線事業部の社員、JR、台湾高鉄の社員、また工場で働く人々…。この物語の主人公ともいえるのは新幹線事業部としては異例の若手女性社員である春香だ。台湾通であることが高じて、このプロジェクトに抜擢され、台湾で生活している。その仕事ぶりもきちんとしていて好感が持てる上に、春香には昔台湾で出会って気になったまま別れ、会えずじまいになっている男性がいるというこのベタなエピソードがある。これがまた物語のスパイスにもなっているように感じられて目が離せない。春香の働く職場、春香の思い出の台湾男性人豪の生活、工場で働く人間である威志の生活、台湾で生まれ戦後引き上げた老人の人生などがうまく織り交ぜられ交差するストーリー展開は、「怒り」の誰が犯人かどうかわからない3人の人生が同時進行する様子を彷彿とさせる。ただこの「路」の場合は、そのそれぞれの人生が交差し皆がつながるところが絶妙で、よく出来た映画のような感じがした。
またこういう展開はともすると冗長になりがちなことがよくあるけれど、この「路」だとそれぞれの人生で色々な波乱万丈な出来事があり、皆必死に生きている様が色鮮やかな台湾の風景と共に脳裏に再現され、長編にあるにもかかわらず中だるみせず読むことができた。
ただ新幹線が300キロ走行成功した後、そこからの展開は若干長すぎるのではないかという気もする。それぞれの今後の歩み方を描くことはいいのだけどちょっと長すぎる気がしたのだ。最後の盛り上がりと共に収めた素晴らしい成功が、どうもこの長さで色あせる気がしてしまった。
春香と繁之と人豪
繁之と付き合っているときはそれほど感じなかった彼の疲れはやがて彼の精神を蝕み、彼は現在鬱状態に陥ってしまっている。その部屋の荒れた描写は、繁之の病状は決して楽観視できない、かなり重篤なものだということを感じさせた。
ただそのような状態の繁之を置いて別れることができないという一点張りの春香の対応にはいつも違和感を感じた。春香自身は台湾にいるため実際問題繁之のそばについてやれることはできない。繁之自身からも別れてくれと懇願されているのだから、それに応じるのも最後の愛情なのではないかと思ったのだ。自分は何もできないのに別れることさえしないというのは、あまりにエゴイスティックではないだろうか。ましてや春香は何年もの時間探し続けた人豪と出会うことができた。愛情が移行しつつあるのは当然のことで、だからこそ尚更繁之とは別れるべきだという気持ちがずっとあった。仕事に没頭したいのなら余計そうすればいいし、春香のしていることは何一つ繁之のためになっていない。だからというわけでないけれど、個人的に春香はあまり好きではない。
よく考えると、私は吉田修一の書く女性があまり好きではないように思う。短編などではいたと思うけど長編となるとどうしても登場する女性に魅力を感じないことが多い。反面、男性には魅力的な人が多い。この人豪もそうだ。春香の上司も味がある。この作品では春香だけ、どうしても最後まで好きにはなれなかった。
新幹線走行速度300キロ突破
台湾でも中国でも、外国、特にアジア方面のスケジュールや約束の時間などの考え方は、しばしば日本人とは大きく違うことが多い。もともと電車自体あれほどきちんと時刻表どおりにくるのは日本くらいだ。だから色々なものが延ばし延ばしになり、あきらめられるものはあきらめ、譲れないものは譲らず、いらだちながらもようやっと待望の試運転を迎えることができた。そこでも計画は遅々としか進まず、何度やっても予定の300キロを突破しない。試運転用の座席のない車内に置かれたデジタルメーターで180、190、195などと速度が上がっていくのを皆が見守る描写は、映画でも見たかと思うくらい鮮明に脳裏に映像として残っている。そしてついに300キロを突破した瞬間の皆の喜び様は、今思い出しても鳥肌がたつ。つい涙腺も緩んでしまうくらいだった。この日のために皆がどれほど努力してきたか、春香たちプロジェクトチームの人々、工場で働く面々、彼らの努力が全て報われた瞬間だった。あの瞬間は本当に気持ちよかった。この本で最も好きな場面だ(次に好きなのは、春香と人豪が初めて出会ってスクーターで町並みを飛ばしている描写だ)。
台湾から引きあげてきた老人の後悔
この老人葉山は、台湾で生まれ戦後引き揚げてきた日本人の一人だ。妻をめぐり台湾人である親友を差別的に傷つけてしまったことが深い後悔として心の傷に残っている。それ以来は台湾の思い出話さえすることもできず、過去を封印して生きてきた老人だ。妻が亡くなったことをきっかけにその旧友に会い謝りたいと願いながらも、なかなか行動に移せずにいた。というこのエピソードは、あまりこの物語と関係がない上に話を広げすぎではと感じた。あまり登場人物の数を多く作りすぎ、いわゆる“風呂敷を広げすぎた”状態になると、それぞれの人物の描きこみ具合が浅くなり、物語に深みがなくなってしまう危惧があるからだ(個人的には「太陽は動かない」がこれにあたると思う)。しかしこの老人のエピソードもそのうち人豪につながり、春香につながっていく。この話の流れには無理がなく、台湾という場所をベースに老人と若者がつながったような、ほのぼのとした気持ちにさせた。
ただこの老人が後悔を残していた旧友とのこじれについては、若干感情を煽るような文章が目に付き、逆に少し冷めてしまったというところは少し残念だったところだ。
春香と人豪の恋愛の静かさ
6年という間を置き再会を果たした二人だったけれど、恋人同士になることはなかった。出会った当初はお互い恋の感情があったのだと思う。そして相手を探して思って経っていった年月は、二人を成長させはしたけれどその気持ちを愛に変えることはなかったのだろう。読んでいる側としてはやきもきしてしまったことは間違いないけれど、その二人の静かな愛情と言ってもいいような感情は、繊細で美しく、もしかしてお互いそれを守ろうとする気持ちがあるからこそ性急な展開を避けたのかもしれないと感じさせるようなものだった。
これからの年月は二人を新たなスタートを切らせるかもしれない。春香は台湾に、人豪は日本で遠距離になりながらもなにかが変わっていくように思えた、よいラストだった。
- あなたも感想を書いてみませんか?
- レビューンは、作品についての理解を深めることをコンセプトとしたレビューサイトです。
コンテンツをもっと楽しむための考察レビューを書けるレビュアーを大歓迎しています。 - 会員登録して感想を書く(無料)