キモ・不気味無しで今回はすっきり、だけどちょっと不思議はアリ 小川洋子な世界!
噛むほどに味が出る、不思議な読み心地!
本書は2012年、小川洋子初めてのマンガ原作を、書き下ろし小説として再執筆して発行したものだ。
マンガ誌はBE・LOVEという比較的対象年齢が高い女性向け雑誌。
かの有名な「ちはやふる」も連載しており、35年を超える歴史ある雑誌だ。
そんな雑誌ゆえか、小川洋子独特のキモさ、不気味さは皆無である。
主人公の女性の振る舞いが繊細な部分もあり、どちらかと言えばセンシティブな側面もあるかもしれない。
とは言え、小川特有の不思議な読み心地は全開で、いろんな解釈が楽しめる。
噛めば噛むほど味が出る、というのはこういうタイプの作品を言うのだろう。
一つのネタで笑いと涙を取れる文章職人
同年に発行されたエッセイ集「とにかく散歩いたしましょう」の中に、手芸を始めた、というネタがある。
エッセイ上は趣味で始めたかのように書いてあるが、それが本作の遺髪専門の編み師というシリアスなお話の元になるとは! という感慨があった。
エッセイでは「長編み、中長編み、長々編み」のタイトルからコメディな気配が伝わってくる。
通信販売でキットを買って手芸に親しんでみたが、編み方の言葉の区別もつかず、編んでいる場所も分からなくなり途方に暮れている、という日常の1シーンを小川洋子は細かく、リズミカルに、ポップに書いている。
エッセイではあれほど爆笑ネタとして書いていたのに、この最果てアーケードでは、最も涙を誘う一遍だと思う。
(私は遺髪レースの編み師が涙を流しながら作業をしているシーンで目頭が熱くなった…
ここは子供がいる読者なら泣ける箇所ではないだろうか)
小川洋子はしばしば小説のネタをエッセイでも使い、我々を楽しませてくれる。
上記の手芸の話は、特に楽しさと悲しさという両極を書き分けており、一つのネタや知識で二度読者を楽しませるところはさすがと言うべきか、彼女なりのエコ執筆方法とうなずくべきか、考えるところだ。
他にもカワウソの肉球や三輪車の構造なども複数回使っていたり、対談、エッセイ、小説と三度使うネタも有ったりするので、彼女の作品は合わせて読み込むほど面白い。
「死」を重すぎず、軽すぎず描く、描写の職人
本作では色々な死が描かれている。
衣装係の老女、幼いうちに内臓を病んでしまったRちゃん、ラビト、母親、ジャワマメジカ、勲章店のご主人、昔勲章をもらったある詩人、そして父親。
それらは必要以上に劇的に描かれない。
死はどこにでもある単なる死に過ぎない。
唯一父親が亡くなる時の火災の描写は、後でも触れるが非常に劇的に描かれている。
しかし、それも火災のみであり、父の死は事実以外は何も語らない。
遺体にすがって泣くとか、遺品を拾う、といった直接的な死にまつわる描写は敢えて避けている。
本作で唯一描かれる死体は衣装係の老女であり、それもごくひっそりと静かに扱っている。
まだ死が到達していないが、おそらく遠くないある日に、ノブさんとベベも旅立つだろう。
何故その死が必要なのか、それは次章で語る。
※前述のジャワマメジカは実在の動物で、文中の表記に劣らずかなりかわいい。要検索である。
死の準備
主人公は後半に向かって死の準備を始めているのではないか、と私は解釈している。
図書館のカード更新の際、少々挙動が不審なシーンがあり、これは電話がつながらない事の伏線だったとわかる。
では何故電話はつながらないのだろう?
端的に言えば電話代を払えなかったのかもしれないが、大して儲かってはいないとは言え何店舗もあるアーケードの大家として電話代も払えないほど困窮しているとは思えない。
そうだ、彼女はもう自分には必要ない、と思って電話代を払わなかったのだ。
遺髪レースを頼むこともそのシーンでは違和感があるが、通して読めば自分自身の遺品を作っているのだと読み取れる。
小川洋子は「琥珀のまたたき」発行時のインタビューの中で、彼女自身が得意とするパターンは「閉ざされた世界とその崩壊」と語っている。
https://www.youtube.com/watch?v=JkO9LmtqHTo
この小さなアーケードは、完全ではないが外界との接触が比較的少ない世界であり、中でも主人公の女性はおそらく人生のほとんどをこの中で生きてきた、という点においてまさに閉ざされた世界の象徴とも言える。
その彼女は何故、死の準備をしているのか。
単純に、母を思いやれなかった申し訳なさとか、果たせなかった父との約束を悔やんでいる、というだけではないと思う。
父に対してはそれもあるが、このアーケードはもともと「死」を内包しており、そのアーケードの一部でもある彼女自身が、死を受け入れることでよりアーケードと同化する、というイメージ的なものだと私は読み取っている。
べべも老化しており、その世界の一部となる準備を進めている。
年老いたノブさんもそうだ。
彼女の手を引く病院の雑用係が「何も怖くないよ」という。
彼女の父も「何にも心配はいらない」と囁く。
父からもらったこの世で最も美しい石鹼を壊してしまった時、彼は優しく「石鹸は台無しになんかなってないよ。こうしていい匂いに変身しただけさ」という。
そうだ、彼女もべべもノブさんも、生という形を失っても、アーケードを包む優しい匂いになるだけなのだ。
だから彼女は石鹸がいい匂いに変身するように、生をすててライオンが守る窪みに旅立つ。
そこで彼女はこのアーケードの全てとなるのだ。
美しい風景、流れる動作、マンガと小説の競作
小川洋子にとって、マンガ原作というのは初の挑戦である。
ヒット作となった「博士の愛した数式」と「薬指の標本」は映画化されたが、そのどちらも小説が評価された上での映画化であって、最初から映画のための企画小説ではない。
テレビドラマ化された「人質の朗読会」も同様だ。
本作をマンガとして担当したのは有永イネという当時の新人マンガ家。
小川洋子の原案をこんな風に描くのか、と思えた。
マンガ版の主人公は可愛らしく、ちょっとミステリアスで感受性が高い、見た目より若干大人びた気配を持つ。
小川洋子作品はあまり文章や会話で主人公を美しく見せる演出をしないので、絵がつくとシンプルに可愛らしさを味わえることが不思議だ。
ここからは私の予測だが、文章職人である小川洋子が、表現の対極とも言える漫画を見て刺激されないはずがない。
自分の原作に絵が付く。
キャラクターが、アーケードが、二次元になり、説明の文章を伴わず一目でわかる。
そうだ。
マンガというジャンルは、たったひとコマで、情景描写、キャラの年齢、性別、社会的立ち位置、性格などを表すことが可能なのだ。
だからと言って、もちろん小川洋子が、漫画の方が優れた文化だ、と思ったはずはない。
彼女はこの漫画を見て、では自分の文章はどのようにこの世界を表現できるのか、と燃え立ったのではないだろうか?
本作では、常に描写にこだわる小川洋子が、更に表現の高みを目指しているように見える。
私が特にそれを感じるのは「兎夫人」の冒頭だ。
アーケードに差し込む西日に、白い運動靴を浸してその色合いを楽しむ主人公、
纏めれば上記の一行なのだが、これを丁寧に2ページかけて描き、文章なのに我々の脳内にその美しい景色とほほ笑む主人公をダイレクトに届けてくれる。
美しい文章を書くことで小川洋子は、マンガより小説が優れている、などと言いたいわけではない。
それぞれがそれぞれの道を究めていく同志として、私は私にできる極限を目指します、あなたもそちら側で頑張って、という姿勢とメッセージをあらわにしているのだ。
上記の静と喜びとは真逆のシーンもある。
「フォークダンス発表会」の後半、小川洋子作品には稀有な、出来事としてドラマチックな火事のシーンだ。
立ち上る火柱、飛び散った火の粉、父の安否を想いながら、映画のチケットとメダルを気にする主人公。
待っている人がいるんです、
叫びながら走る姿が目に浮かぶ。
そこに表されているのは、動的な危機感と焦り。
このようなシーンはむしろマンガよりも小説の方が奥行きを持って書けるかもしれない。
彼女のそんな思いが行間から伝わってくる。
あのマンガの表現、私ならどう書くだろう。
本書は筋書きが比較的ドラマチックでわかりやすい分、そのような表現の追及に力を注いでいるのだと思う。
小川洋子にとっては、ストーリー進行よりも大事な、描写へのこだわり、それがマンガ原作という新たなチャレンジで一歩先に進んだのではないだろうか。
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