深く美しい藍色の世界観 - 猫を抱いて象と泳ぐの感想

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猫を抱いて象と泳ぐ

4.134.13
文章力
4.88
ストーリー
4.13
キャラクター
4.13
設定
4.00
演出
4.25
感想数
4
読んだ人
5

深く美しい藍色の世界観

4.04.0
文章力
5.0
ストーリー
4.0
キャラクター
3.5
設定
4.0
演出
4.5

目次

主人公と共に深い海の中をゆっくりと進んで行くような物語

タイトルに「泳ぐ」という言葉が含まれているからか、読んでいる間中ずっと、深い深い海の中を漂っているような感覚に陥る作品です。耳に入るのはコポコポという泡の音、そしてチェス盤と駒の触れる硬い小さな音だけ、そんな静謐な空気感が物語全体を支配しています。それはきっと、出てくる登場人物たちがみな、少しずつ何かに欠けていて、非現実的で、そして憂いを帯びていながらも清らかな心を持っているからだと思います。

小川洋子さんの代表作「博士の愛した数式」にも共通していることですが、誰もが感じる人生の儚さや尊さが、丁寧な美しい言葉で描き出されています。しかし「博士の愛した数式」は、もう少し若葉色のような、春のような軽やかさと明るさがある気がします。記憶が1日しかもたない数学の天才の優しさに加えて、家政婦の息子の可愛らしさ、子供ならではの無邪気さとエネルギーが所々にちりばめてあるからです。

でも「猫を抱いて象と泳ぐ」の主人公は違います。彼自身が少年なのに、それも子供のような小ささなのに、子供が本来持っているはずの生気や、明るくハツラツとした将来への展望というものがまるでないのです。悲しい生い立ちのせいなのか、天才ゆえのハンデなのか、すでに悟りの境地に達しているような物事の捉え方、直接他の人と関わることの難しい内気さ、チェスの世界に深く深くはまり込んでいく情熱、それら全てがこの物語の、冷んやりとした海の底のような空気感を醸し出しているのだと思います。

チェスの美しさを感じられる作品

私はこの小説を読んで初めて、チェスの世界に少し触れられたような気がしました。チェスを指したこともなければルールも全く知らない私ですが、この作品を通してチェスが一つの芸術であることは何となく理解できました。

上述の「博士の愛した数式」において、数学は美しい詩を紡ぐようなものであると語られていたように、この作品ではチェスもまた同じように美しく、天才同士が高みを目指し戦う時に美しい棋譜が生まれるのだということを描き出しています。

漫画「ヒカルの碁」を読んだ時にも、神の一手を目指す棋士たちのたゆまぬ努力の歴史があることを知りました。棋士が死んだ後もその人の残した棋譜は残ります。それを研究した次の世代の天才が、また新たな一手を練る、そうして脈々と連なる名人たちの努力は「神の一手」それ以上最善の手はないという一手を生み出すのです。しかも天才が一人では美しい棋譜は生まれない、同じ時代に天才が二人以上いなければ、高みを目指していくことはできないのだと知った時、なんだかとても感動したのを覚えています。

そういう意味では、この作品の主人公はまるで孤独な訳ではなく、多くの対戦相手と共に共同作業でチェスの世界の美しさを極めていたと言えます。私のような凡人には決して味わえない、広い広い世界を旅するような幸福感を知ることができるのでしょう。どの分野でも、囲碁でも将棋でもチェスでも、そして数学や物理の世界、あるいはスポーツや音楽や料理の世界においても、極めていく天才たちはその世界の美しさに魅了されトップリと沈んでいくのだと思います。そうして生み出されたたくさんのものの恩恵に、私も日々あずかっているのだと感慨深い気持ちになりました。

現実世界を生きていくヒントとは

この物語の主人公は、普通の現実世界ではあまりに弱く、適応していくことが難しい存在です。物語の世界でなければ、完全に引きこもりのニートになっていることでしょう。でも誰しもそうした側面は持っており、何か大きなストレスがのしかかってきた時、自分は大丈夫とは誰も断言できないものです。だからこそ読者はこの少年に少なからず感情移入し、心情に寄り添い、成長を見守っていきたいと愛情さえ抱いてしまうのだと思います。

普通の物語の主人公ならば、これだけの才能と情熱があれば、不幸な生い立ちを乗り越えて表舞台へと羽ばたいていくものです。上述の「ヒカルの碁」の主人公も、最終的には自分の力で囲碁の表舞台へと旅立っていきます。でもこの作品の主人公は違います。成長が止まってしまったかのように、小さいままなのです。チェスもからくり人形の中に入ったまま指すのです。友達と呼べる友達もほとんどおらず、一人寂しく生涯を終えるのです。本当に最初から最後まで海の底に沈んでいるかのような一生です。そこが、非現実的でありながら非常に現実的な世界観が上手く表現されている所以だと思います。

世の中、そう上手くいかないことの方が多いものです。どれだけ才能があっても、どれだけお金があっても叶わないことがある、いやそもそも大抵の人は才能もお金もなく、それでも細々生きている、それが現実です。そんな世の中の不条理さを一手に引き受けているかのような主人公、でも心は真っ直ぐ清らかなままで自分にできる最善を尽くしていく、そのひたむきな姿が読者に何か大切なものを訴えかけてくるのです。

深い海の中を少年と共にゆっくりと泳いだ後、水面まで浮かび上がったら青空を見上げてひと呼吸したくなるような、そんな作品です。

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