暴力ではなく”力” - フライ,ダディ,フライの感想

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フライ,ダディ,フライ

4.754.75
文章力
4.25
ストーリー
4.50
キャラクター
4.75
設定
4.75
演出
4.50
感想数
2
読んだ人
2

暴力ではなく”力”

4.54.5
文章力
3.5
ストーリー
4.0
キャラクター
4.5
設定
4.5
演出
4.0

目次

暴力がいかにして生まれるか

この作品に限らず金城一紀の作品を読んでいると、暴力とは何たるか、ということをしばしば考えさせられる。世の中から暴力をなくそうという基本的な理念は世界中の誰しもにも理解してもらえるはずだ(少なくとも表面上は)。しかし現実問題暴力は世の中を支配している。それはただの筋力や武力なんかだけではなく、権力や社会力による他人の制圧もそうであると思う。そしてもっと言えば暴力のない世界の実現という考え方でさえも、他人に強要してしまえばそれはすでに暴力の始まりなのだ。なぜこのように暴力は世の中を支配しているのか。

この作品の場合で言えば物語の始まるきっかけが暴力である。サラリーマン鈴木の娘が高校生ボクサー石原に襲われてしまうのだ。普通の女子高校生とボクサーである男子高校生という圧倒的に力に差のある相手に無抵抗に攻撃される。そこでその悔しさを暴力で相手にぶつけようと今度は鈴木が刃物をとって仕返しにかかる。そしてその稚拙な発想と感情的になりすぎている手段は、瞬臣という圧倒的な力によってさえぎられてしまう。そして鈴木は瞬臣に”力”を習得する手助けを受けるのだ。最後は鈴木が石原を力で圧倒して物語は終わり。単純に正義のヒーローが最後に逆転する物語としてこの作品を楽しんだ人は、爽快感があって読みやすかったな、という感想で終止してしまうかもしれない。しかしこのようにあらすじを整理すれば、この作品はただ暴力が輪廻しているだけなのだ。でも読んでいる人にとっては「この暴力はいいけど、この暴力はいけない」といったように何となく区別がある気がするのだ。そうして私は”暴力とは何か”ということをテーマとして見出すことになる。

その暴力の目的は何か

暴力の存在を肯定する手段はいくつかある。まずなぜこの世に暴力が生まれるかということから考えてみる場合、それは明らかだ。地球上の生物は生存競争をしている。より優秀な遺伝子を残すためにそれぞれは争い、食べ物や資源を奪い合う。そこに暴力が生まれる。そして一度は優劣がつくため、その共同体は平和になる。しかしそれは永遠には続かない。平和を保った共同体は、一度は暴力を排除して権力や社会力で弱者を支配し始めるが、それに抑圧された側は暴力以外に反撃の手段を持たず、いずれ自分の持てる限りの暴力で反撃を始めるのだ。それぞれの人間に才能が平等に与えられてるわけではない以上、こういったことが起こるのは必然だ。こう考えるとほとんどの暴力は正当化される気がして、この映画の内容を解釈するための要点を見失ってしまう。

次に「この暴力はいいけど、この暴力はいけない」といったような区別の根底にあるものについて考えてみる。考えられるものとしてそれが、その暴力の目的は何か、に依存しているということだ。読者は、冒頭の石原の暴力はいけない気がするが、最後の鈴木の仕返しの暴力はなんとなく仕方がない気がするはずだ。それは最初の石原の暴力がただの自己顕示と快楽による暴力であって、鈴木の仕返しの暴力ははっきりとした正義を持った正当性のある暴力だということがわかるからだ。ただこの点がこの作品の最も重要なポイントだと思う。もし石原の最初の暴力が、他者による抑圧からの反撃だった場合どうだろうか。もちろん関係のない人間を巻き込んだことについてはダメだが、それでも鈴木は石原の言い分や状況を特に理解しようとはせずに最終的には暴力という手段をとってしまう。それが果たして正義と悪として簡単に区別できるのだろうか。それを考えることこそこの作品の存在意義だと思う。

瞬臣の考える”力”とは

暴力とは何かということを考えていくと何だか深みにはまってしまいそうだが、それを助けるために作中で著者はメッセージを送っている。それが瞬臣の言葉たちだ。瞬臣は鈴木に戦い方を教えるが、それでも鈴木が暴力にのめりこまないように注意を促すセリフがいくつかある。そして鈴木は石原に勝とともに自分に打ち勝つのだ。

鈴木は最初に刃物を持ち出した時、手っ取り早く自分のくやしさをはらすために力を使おうとした。あれは紛れもなく他人を傷つけるための暴力だった。それがいかにダメかを瞬臣は鈴木に教え、そして自分を超えるための、他人を守るための力を鈴木に教えるのである。それこそがメッセージなのではないかと思う。やみくもに暴力を振りかざすだけが力ではないのだ。

瞬臣は作中であらゆる本を読んでいる。それが西田幾次郎の「善の研究」だったり、コンラートローレンツの「暴力論」であったりするのだ。それが示すところは、やはり瞬臣も暴力について悩んでいるし、その存在について慎重に吟味しているということである。

暴力は決して駆使するべきではない、しかしこの世からなくなることがない以上、その意味について逃げずに考える必要がある。そしてその先に何があるか、恐怖のさきにある”本当の勇気”とは何か、この作品は教えてくれている。

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