生と死を見つめ続けた作家の遺作
私小説風の話を含む作品
この「死顔」には全部で5つの作品が収められている。その中には私小説風の2作も収められており、恐らくは吉村昭の一生のテーマである生と死についての実体験が綴られている。
吉村昭自身、若い頃に肺病を病み、当時実験的であった手術に望んだことは彼の他の作品のいくつかにも書かれており、何度か読んだことがあった。その体験は何度読んでも壮絶で、それでいてどこかしら清らかなものを感じるものであった。
今回の「死顔」はタイトルにもなっているその話が吉村昭の遺作となるものである。生と死の両方、どちらかといえばどのように死ぬのか、死とは、と言うことをずっと掘り下げ続けた彼らしい作品だと思う。
吉村昭自身の療養生活を描いた「ひとすじの煙」
壮絶な手術の末どうにか生きながらえることが出来たものの衰えた体ではあることに変わりはなく、家族と相談の末、吉村昭の次兄がよく行っていたという湯治場に滞在し、療養することになった。宿の主人たちに食事の世話をしてもらいながら、のんびりと空気のよいところで生活すれば治りも早いだろうという素朴な考えだったものの、実際彼はそこで徐々に体力を取り戻していく。その当時、そういう湯治場で療養に専念できるのも家が裕福であるがゆえであると思う。上の兄2人が父親から受け継いだ紡績工場と製綿工場のおかげだろう、彼には金銭的余裕があったのもうなずける(この製綿工場については、繊維業界のいさかいを描いた「真昼の花火」で感じ取ることができる)。
無理が出来ない体ゆえに、食事を下げにくる従業員たちや、泊まり客たちによく目がいくのだろう。決して近づきすぎない距離感で、彼らの生活と日常が客観的な中にも微妙な親しみを感じさせるトーンで描かれている。
平和で何も起こらない日常が続く描写の中に訪れたある従業員の死は、いきなり突き落とされたような展開だった。実際彼自身もそう感じたのかもしれない。限りなく死に近づいたはずの自分を通り越し、健康そのものだった彼女が乳飲み子を抱いて心中したという痛々しい出来事は、きっと彼を苦しめたに違いない。また彼女の心中の恐らく原因であったであろう姑に対しては、哀しみは感じたけれど怒りは感じられない静かな文章が印象的だった。
死を迎えつつある次兄に対する思い
次兄は病気も克服しながらも老化による衰えには勝てず、死を迎えつつある状態だった。兄弟たちもほとんど死にゆき、残った血のつながった兄弟である吉村昭と兄(この場合の兄は何番目なのかはわからなかったが次兄とは7歳違うとのことだった)は、見舞いに行こうにもそれぞれ高齢であるのと遠距離ということもあり、気楽にいくというわけにはいかなかった。その上吉村昭には自身長期の入院をした経験があり、見舞われることが病人にどれほどの負担を強いるのかということを知りすぎるほど知りすぎているため、あえて見舞いをぎりぎりまで控えるという奥ゆかしい心遣いを見せている。これはきっと中々できないことだと思う。次兄のことを思えば、ましてや余命いくばくもないとなれば何を置いても飛んでいこうと思うだろうし、残された時間を共に過ごしたいと願うはずだからだ。しかしそれをあえてせず、家族の時間を邪魔しないことを一番に考える思いやりは見習いたいところだった。
吉村昭の弟が亡くなったときは家族がいない彼のためにできるだけ一緒にいてやろうと思ったとのことだったが、次兄には家族がいて子供もいるわけだから、その輪に踏み込んでいって彼らの静かな時間を乱すのは避けなければ、との言葉がとても印象的な話だった。そういう心構えで暮らしていたからか、比較的この話は遠くから語られるような感じを受ける。客観的というわけではないのだけど、あえて感情を抑えているような、そんなような印象を受けた。
タイトルの「二人」は、兄弟で残った彼と兄を指した二人なのだろうと思った静かな話だった。
保護司の男性から見た元受刑者たち
この話は、刑を終え刑務所から出て来た人たちが再犯などせぬよう導き、新たな人生のスタートを切るのを手伝う保護司の日々の出来事が書かれた話である。吉村昭の作品で「見えない橋」というのがあり、これも保護観察官の日々を描いたものだけれど、今回のは短編というのもあり、話は短い。しかしその短い間に出会った元受刑者たちとの交流が濃厚に描かれており、とても興味深かった。
光代という殺人を犯した元受刑者を担当した主人公は、殺人犯を担当するのは初めてだった。緊張しつつも彼女と対峙していく彼の気持ちの推移が緻密に描写され、とてもリアリティがあり感情移入してしまった。
殺人を犯したといっても介護に疲れ発作的に犯してしまった犯罪であり、凶悪とは程遠いものではあったため、主人公の緊張がいささか過敏すぎなようにも思えなくはなかったけれど、それは小説の上での話で実際どのような理由とはいえ人を殺した人間と向かい合ったら、それなりの緊張があるのが当たり前なのかもしれない。
そして光代の浮世離れした感覚と対応が、彼の緊張をいつまでも解かせないものとなっている。夫の妹に対しての接し方などはかなり気味の悪いのもので、どういう理由にせよ殺人を犯したものの心理は理解できないような気分になった。
遺作「死顔」
生と死、特に死について深く深く掘り下げ続けた彼の遺作にふさわしいタイトルであることに感動さえ覚えたこの作品は、吉村昭自身の死に対しての思い、理想の死というものに触れたものとなっている。数多くの肉親の死に立ち会ってきた彼は、死というものに対してこうありたい、こう死にたいという思いが一般の人よりも強くもっているように感じられる。彼が若い頃大きな病気をしたということも一因だと思う。だから延命処置などに対してなどはもちろん、無駄な治療は薬さえも拒否したいという思いさえもあり、それはとてもきっぱりとしていて清清しく、僧侶を思わせるような神々しささえ感じられるものだった。
吉村昭が書いていて自分もそうだと前から思っていたことは、葬儀の式の中での“最期のお別れ”というものだ。死んだ後の顔というのは限りなく個人的なもので、一方的に皆に覗き込まれるのはこちらもどこか罪悪感もあり、相手にしても気持ちのいいものでないだろうということだ。だから自分のときはそれは勘弁してもらいたいと思っていた。吉村昭がそう書いてくれているのを知り、この感覚が決して間違っているものではなかったということがわかったのが、少しうれしかったところだ。
「二人」では、次兄の死について書かれているけれど、それはどこかしら遠くから見ているような感覚になる文章だった。もちろんそれは意識的にそうなっているのだろう。その代わりこの「死顔」で書かれていた次兄の死については、身内らしい親しみと哀しさをうっすら感じさせる文章となっている。この二つの作品の対比がなにかしら印象的だった。
自らの死期がせまっている中で書き上げられたこの作品は、彼の気持ちの集大成となるべく相当な時間をかけて推敲されたと、吉村昭の妻である津村節子があとがきの代わりに書き上げられた話に書かれている。そこには、死ぬ前に葬式の詳しい手はずまで整え、自分の理想とした死に方を見事に貫いた彼の臨終の様子が書かれていた。
干潮に人は死を迎えるという俗説の通り、次兄はその時間帯にこの世を去ったけれど、吉村昭もまさに干潮の時間帯に亡くなられた。。万全の思いで死を迎えたというような、旅立ちといってもいいようなその世の去り方に、若干のうらやましささえ感じてしまった作品だった。
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