孤独で壮大な広がりを見せるストーリー
幼少期のワタルの孤独
初めて彼が孤独を知ったのは恐らく4歳の頃だと思う。母親に連れられて戦隊もののショーを見に行ったワタルは、そこに来ている家族のほとんどが男の人と女の人がセットになっていることに気づく。母親に無理を言って肩車をしてもらってもまだ、回りの父親に肩車をされている子供たちの頭の位置の高さにはかなわない。結局最後あたりしか見れず泣いてしまったワタルだが、この時きっと意味はわからなかったけど、孤独の原型のようなものを感じたのではないだろうか、そのように思った。
幼稚園に入ったワタルが動きまわり、一つところにじっとできなかったこともを母親は相当心配したかもしれない。でも何でも症状を名づける昨今の風潮も手伝い(彼女が科学者だったことも手伝い)、処方された薬を「お医者がゴルフクラブを買うための薬」とばっさりと判断し、2度とその医者のところには行かなかったところとかは個人的にとても気分がよかった。
またワタルにだけでなく、母親にも母親同士としての友人というのはいなかった。だからこういうことを相談できなかったのは、精神的につらかったかもしれない。だけど母親同士の生半可な傷の舐めあい的な会話でつかのまの安心感を得ても、それは結局なんの解決にもならないと思う。ワタルの母親がどう思っていたのかは知らないけれど、余計なつきあいはないほうが余計な気を使わなくて済むだろうとは思う。だけど、大人がそう思うのであって、子供の頃のワタルにそんなことが分かるはずがない。ましてや母親の交流関係など尚更だ。母親に気遣いながらも、自分自身に友達がいないのには慣れていたはずだけど、ところどころ垣間見せるワタルの寂しさが印象的な幼少期の話だった。
一人称で進むストーリー
主人公であるワタルの目線でストーリーは進んでいく。その話し方も、年をとるにつれその年を感じさせるという芸の細かさで、ただ淡々とストーリーを語るのではなく、当時思っていたり隠していた感情を吐露する場にもなっている。そしてそれは当時の考え方、感じ方を現在のワタルが語るため、過去と現代の感情や状況を同時に表現しているところも多い。映画で言うと「スタンド・バイ・ミー」の主人公のような、あのような感じでどんどん当時のことを語っていく様子は、こちらも子供のころを思い出したりして感情移入してしまう。だんだん大人になってきたワタルは、見た目はそれこそ立派になったかもしれないが、同時に心には子供が内在している。そして他人のことはよくわかっているくせに自分のことは全く分かっていない様子に微笑みが生まれたり、思いがけない行動力に驚いたりもした。そしてそこにはいつもワタルの目から描写される風景が入ってくるので、同じものを一緒に見ているような、同じように大きくなったような、妙な感覚がした。
一人称で進むストーリーは時に子供っぽくなってしまうデメリットがあるように思っていたけれど、主人公の感情をここまで臨場感溢れて描写するにはこの絶対この方法だなと納得したくらい、秀逸なストーリー展開だった。
ワタルの母親とその研究
遺伝子の研究者である母親はシングルマザーとしてワタルを出産している。それほど進歩的な町でない以上、それは好奇の目で見られることとなった。だけどこの母親は自身をしっかりともち、研究者ならではの理知的な目線と知識に溢れており、余計な友人など必要でないのだろうかと思う。ワタルは時折、母親が周囲とうまくいっておらずどこまでもよそ者として扱われることに憤慨している部分があるが、そのよそ者感はある意味快適だったりする。外国にいるとき時々感じる“世界でひとり”感は個人的には自由と無敵さを感じさせるように思うけれど、ワタルの母親もそうだったのではないかと思う。それに研究所では気の合う仲間たちがいるわけで、無駄な人との関わりなどは必要としていなかったのではないかと思う。その点はワタルは少し心配しすぎているように思った。きっとワタルが思っている以上に、彼女は人生を謳歌したと思うのだ。
当時の上司だったロシア人と関係を持った過程は書かれていないけれど、時折彼の著書を出して写真を眺めていた様子から察するに、そこには確固とした愛情があったと思う。自分をきちんと持ち理性的に話をする彼女のそこだけが、彼女が隠そうとするものではあったけれど、それは逆に大切だからこそ誰にも話したくないという思いがあったとも思える。
ワタル自身も不器用ながらも愛すべき性格だと思えるけれど、それ以上に彼は類まれな母親を持ったと思う。彼女の多くの言葉は重みと真実味に溢れ、母親としての理想さえ感じられる。そしてその言葉は、書き留めておいて将来息子に言いたいと思える言葉だった。そういう数々の彼女の素晴らしさがこの本に多く書かれているところも、この本の読み応えのひとつだ。
個人的にはこのワタルの母親は、母親の理想像でもある。
ワタルの成長
自身のルーツを探るあまり、クロマニヨン人の息子というありえない結びつきを宝物のように大事にし、石器作りに精を出していた幼少時代の話はとても好きだ。本人自体さほど気づいていなかった孤独という空洞を、そういう思い込みで埋めようとしたのか、彼が一所懸命になればなるほど切なくなる。でもそれはワタルを強くさせる想いだったことに間違いはない。その後中学、高校と進むにつれ、彼の血と筋肉(やはり日本人よりは筋力が優れているのだろう)を生かせる陸上というスポーツにめぐりあったことも彼にとってプラスに働いていた。クロマニヨン人の息子と思って生きてきた彼が自然に槍投げに引き寄せられ類まれな才能を発揮させたのは、当たり前といえば当たり前だったのかもしれない。
ロシアに渡ったワタルは、実際の父親に会ったときよりもガラスの標本の中に横たわったクロマニヨン人のミイラに対してのほうが親近感を覚えているように思えた。長く続いた物語もここで終盤に入り、一番最初のページに書かれていた場面に戻るという展開は、個人的には映画を見ているようでとても好きだ。
ただここまで若干気づいていたけれど気づかないようにしていた、ワタルの直情型すぎるところが(そこも愛すべきところではあるのだけど)ここで爆発する。そのクロマニヨン人(実際にはそれは疑問視されていたが)をバッグに入れて持ち帰り雪山に還そうとするところは、思い立っても途中であきらめるくらいならいいけど、最後までやり切ってしまったところはロマンが先行しすぎていささかリアリティに欠けるような気がしてしまった。
時々映画でも、ここで終われば良かったのにと思えるときがある。この物語も父親(ロシアの教授もクロマニヨン人も)に会いにいったまではいいけれど、ロシアの冬山でこのミイラを還そうとした挙句サチと二人で遭難する場面は、周囲の人々を無駄に心配させただけで必要ない場面ではないかと感じた。
ワタルの感じた数々の種類の孤独
孤独にもたくさん種類があると思う。一人でいるときに感じるもの、多くの人に囲まれながら感じるもの、自分のルーツがわからないことの孤独、その上十人十色のところも多くあるのではないだろうか。ワタルはその種類の違った様々な孤独を幼少期、少年期、青年期と経験している。そしてそれを乗り越えるたびにワタルに人間としての深みを得ているように感じた。もちろん恋人サチや、気難しい友人トラの存在も大きいと思う。でも乗り越えることができるのはワタル自身の力だ。そのような力の原点を与えたのは母親であり、遡ればアフリカのミトコンドリア・イブにまで行き着くのかもしれない。この話はそこまで壮大なロマンを感じさせてくれるストーリーだった。
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