小川洋子作品にしては異色のすっきり感!
小川洋子中期のすっきり三部作の一つ!
2003年の「博士の愛した数式」、2004年の「ブラフマンの埋葬」と並んで2006年の本作は、若い女性が選ぶ小川洋子の小説で必ず上位に入る作品と言える。
何と言ってもこの三作は、それ以前の彼女の作品と比較して、キモさやグロさが無く、わかりやすく、文章もさっぱりしているので、中高生にも好んで読まれる。
中でも本作「ミーナの行進」は最もシンプルでキャッチー、そしてイノセントだ。
他の作品で小川洋子が多用する特有の不思議さも全く取り入れていない。(こっくりさんは不思議っぽいが当時の流行を表すガジェットと受け取って良いだろう)
珍しく主要なキャラクターの多くに名前があり、役割、性格、後日譚までも明確にされていて、読後感も非常にいい。
作中に書かれた事実がストーリーの全てであり、他の小川作品に多く見られる、難解だがその分読むたびに複数の解釈を楽しめる、というタイプの作品ではない。
書いてある通りの感動に安心して乗っかることが出来る、そんな読者サービスが行き届いた小説だ。
本作で地歩を固めた小川洋子
この時期、わかりやすい作品を連発したことで小川洋子は一定の人気を得た。
そもそも大売れ路線を狙っている作家ではないと思うが、「博士の愛した数式」のヒットで出版社や読者から読み味の良い作品を求められたこともあったのだろうと推測する。
本作以降はこの時期の三年間ほどにはわかりやすさを追求していないが、10年以上を経た今でも、彼女は女性人気作家として認知されている。
この翌年から芥川賞の選考委員にも抜擢されており、社会的に作家としての地位を確立したと言えるかもしれない。
本作は谷崎潤一郎賞も取っている。
この賞は中堅の純文学作家に与えられることが多いが、この時彼女は40代半ばであり、デビューから18年、ほぼ毎年新作小説を刊行しており、読者にも文壇にも十分にベテランの域に達した、と認められた。
これがそんな時期に書かれた一冊だと頭において内容を分析してみよう。
本に触れること、物語を作り出すことに喜びを覚える少女たち
朋子とミーナはマッチ箱に書かれた空想の話や、図書館から借りてくる本を通じて友情を深めていく。
マッチ箱のラベルから独自の物語を紡ぎ出す様は、心温まる場面でもあるが、同時に切ないシーンでもある。
孤独に漂うタツノオトシゴ、流星雨が死んでいく星であることなど、喪失を思わせるシーンも多くみられ、まだ少女であるミーナからそれらの言葉が発せられる時、何とも言えぬ物悲しさが漂う。
身体が弱い、という設定は何度も強調されていたので、もしかしてミーナの命も失われるのか、と心配もする。
ローザおばあさんの悲しい記憶とアウシュビッツの写真集も暗い未来を予感させる。
しかし、終わってみれば、それは悲しい未来の暗喩ではなく、朋子を形成する一部として描かれたのかもしれない。
小川洋子自身は高校生になって「アンネの日記」を読んで感銘を受けた、としばしば発言しており、彼女が作家を目指す素養を育てた重要な一冊となったらしい。
本作の主人公:朋子は作者の分身とも言える存在であろう。
敢えて彼女がアウシュビッツの記憶に出会うように、ドイツ生まれのおばあさん、ミュンヘンオリンピック事件などが巧妙に組み立てられている。
伯父さんが芦屋の家にあまりいないことは朋子の行動で解消されたのかもしれない。
しかし世の中にはどれほどの努力が集まってもなかなか解決されないことがある。
そんな世界の仕組みに気付いていくことも成長だ。
たまたまではあるが、私にも娘がいるので、彼女が中学生の時にこの本を勧めた。
それ以前から、幸いに図書館に行くのが好きな子供だったこともあってか、この本を暖かく受け入れてくれた。
彼女が成人した今も、それぞれに小川洋子の作品を読んで感想を語り合ったりしている。
本を読む、小説を書く、図書館へ行く、それは過去や今にある大事な記憶を、後世に伝えていく行為だ。
成長したミーナが出版に関わる仕事に就き、朋子が図書館で働いているという後日譚は、我々の心を温めてくれる。
本作は中学生の目線で書かれているので、当然年齢が近い少女たちに素直に受け入れやすい。
そればかりでなく、中年である伯父さんや伯母さん、そして老人たち、と三つの世代を描くことで、どの年齢の人間にも、自分たちの少年少女時代を切なく思い出させ、若い世代を暖かく見守りつつ適切に導かなければならない、と思わせる効果を持っている。
史実に基づく展開
川端康成の死、10月のジャコビニ流星雨、ミュンヘンオリンピック、本作は1972年という明確に史実に基づいた現実の社会を切り取って描いている。
現実をあまり描かない小川洋子作品では稀有な例だと言えるだろう。
ミュンヘンオリンピック事件は、黒い九月というパレスチナの過激派組織が起こしたものだが、この時代にも紛争や内乱、テロは世界に溢れていた。
わたし自身は、2001年の9・11以降我々の眼前に降ってわいたようにテロが増えたように思っていたが、それは違っていた。
第二次世界大戦のあとも、世界は死や弾圧に溢れていたのだ。
朋子はおそらく母と二人で暮らしていれば、そんな風に世界を身近に感じることは無かっただろう。
この時、悲しみを記録する資料に触れたことが、彼女が将来図書館に勤めるきっかけになったことは容易に想像できる。
文章は過去の暴挙をそのようにして伝えていく。
あまり戦争や紛争を描くことはない小川洋子だが、朋子は彼女が歩まなかった別の未来を生きているのかもしれない。
一般受けしやすい弊害
本作は良い点、損な点が明確にある。
これまで繰り返し書いてきた通り、誰にでもわかるすっきりした文章であること、キモグロが無いことなどから、中高生の女子に安心して勧めることが出来る、というのは間違いなく優れた側面だろう。
主人公がどこにでもいる中学一年の女子で、一年間だけ豪邸で生活し、生涯の友と言える一つ年下の女の子と交流を深める。
ホームシック、過去の自分の常識とは違う世界の発見、庭に住むコビトカバ、ほのかな恋心、4年に一度というオリンピック体験、伯父さんへの疑惑と小さな冒険、親切で親密な大人たち、これまでになかったいろいろな体験から少しだけ大人への階段を上がる。
いかにもティーン向けの設定だ。
しかしこの一般性のために、小説としては大きな代償を払っている。
文章職人小川洋子は、いつもと変りなく表現力の限りを尽くして、芦屋の豪邸の世間離れした装丁、クリスマスの飾りつけ、遠くに見える山火事の様子、それらを誠心誠意書き綴っているが、やっぱりいつもの彼女の作品より、情景描写が薄い。
それは、ストーリー進行や会話の運びに尺とパワーを奪われているからだ。
小川洋子の文章の真骨頂は、情景描写の巧みさと、セリフに頼らない心情の表現力にあると私は思っている。
しかし本作では、人間関係と出来事を描写する合間に情景描写が点在するのみで、人の心の深い部分まで表すような奥行きが無い。
この対局的な作品は2012年の「ことり」だろう。
もちろんこの作品にも人間が出てくるので、会話や関係を描写するシーンはあるのだが、それが最小限に抑えられており、その多くは景色と登場人物と鳥との関係などに終始している。
主人公が遭遇する出来事もごく静かで、読み手はそれに心を奪われることなく、小川洋子の文章世界に集中することが出来る。
彼女はストーリーテラーではなく、文章という楽器の演奏家なのだ。
彼女の小説の主人公は流れるような美しい文章の旋律であり、ストーリーや会話はそれを引き立てるためのコーラスに過ぎない。
そんな意味で、本作は大変面白く、よくできた作品ではあるが、小川洋子の代表作とは言い難いように思う。
それでも、やっぱり美しい旋律を奏でる文章はいくつもある。
15章のマッチのラベルを朋子が表現するシーン(ハードカバーだと114頁)、26章のみんなで撮った記念写真を年月が経て見つめる朋子(同じく197頁)などを、私は特に気に入っている。
全員揃っている。大丈夫。誰も欠けてない。
この言葉はそれ以後の30年でいろいろなモノを喪失してきたけれど、大事にしてきたものに心を支えられて強く生きてきたのだ、と我々に教えてくれる。
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