森絵都 児童文学からの脱皮 - 永遠の出口の感想

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永遠の出口

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森絵都 児童文学からの脱皮

4.04.0
文章力
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ストーリー
3.5
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3.5
演出
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目次

森絵都の新たなる船出 一般文学初挑戦! 

1990年から12年続けて来た児童文学を、森絵都はここで卒業(脱皮?)している。

本作はあらゆる意味でその境界に位置する。

まさにその時の彼女でしか書けなかった内容だと思う。

物語は小学三年生から始まるので9歳くらい、エンディングでは明記されていないが20代後半と思われる。

まさに本書の前半は児童について書き、主人公が中学、高校へと進み、ヤングアダルトと呼ばれる世代の事も描いている。

成人して以降の事はわずかしか語られていないが、これらが単なる少女の成長物語なのか、というとそうではない。

どの時代にも視点は成人した紀子なのだ。

以下、本作の意味を紐解こう。

ちょっとニガテな児童文学的な冒頭

私は児童文学というジャンルがちょっとニガテだ。

宮沢賢治のような普遍性のあるものは読みやすいのだが、本作以前の森絵都はちょっとポップすぎる、という気がしていた。

美しいものを表現することや、その瞬間にしかない少年少女の気持ちを理解して文章化することのすばらしさは理解しているつもりだ。

でも結局は、現実社会の書けないことが多いジャンル、タブーが多い文学、という気がしてならない。

また、自分自身の幼児期にあまり良い記憶が無いことも、それを遠ざけようとする理由なのかもしれない。

身もだえするほど恥ずかしい記憶の数々が蘇るようで辛い、そう思いながら、前半の小学生時代の紀子についてはかなり軽くしか読んでいなかった。

冒頭の〈永遠〉という響きにめっぽう弱い、という部分だけで、もう何だか恥ずかしい。

私は照れ隠しに、単に姉が永遠という言葉を先に憶えたので、弱者である妹にその言葉を発して楽しんでいるだけではないか、と突っ込む。

たのきんがどうとか、70年代後半の実在のアイドルまで出てきたりすると、気恥ずかしくてたまらない。

私はアイドルなどをに熱狂するミーハーな女子をバカにして育ったひねくれものだったので、この紀子も似たような輩か、と見下してしまう。

そんな作風になんとなく乗り切れず、読むことを途中で放棄してしまいそうになった。

しかし、ある程度読み進めていくうちに、あることに気付く。

これは我々に向けた文学だ、という気づき

森絵都は1968年生まれ、たまたまではあるが私と同じ歳だ。

たのきんなどという当時を生きた人にしかわからない文化を詳細に書いても、現代の少年少女に共感が得られるはずがない。

つまりこれは児童向けではなく、我々同世代に向けた文学なのだ、ということに気付いた。

成長物語である事は見えていたし、小説すばるに掲載されたものである事は知っていたので、どこかの時点で一定の年齢に達するのだろうと予測していたのだが、この物語は最初から大人目線で単に幼児期の事を書いていただけなのだ。

それに気づいてもう一度、今度はつぶさに読んでみる。

例えば最初のエピソードから同級生の好恵について、直接的な表現ではないけれど性的な目線も含んだ分析が行われている。

子供時代にはわからなかったけど、男子はこういう女子に性的魅力を感じていたのだ、という赤裸々な観測は、明らかに児童に向けたものではない。

五年生になって魔女と呼ばれるような担任に苦しめられる、という話も、児童側の目線で書いてはいるが、明らかにこの問題教師が生徒たちを支配していく闇を書いている。

私は本書が、前半はローティーン向けの作品、中盤がハイティーン向け、最終的に一般向け、という対象年齢をグラデーション的に書き分けるテクニックを誇示した小説だと勘違いしていたのだ。

幼年期を書いた部分にも常に周囲の大人が描かれており、母親や父親を注意深く見ると、彼等もそれなりに問題を抱えていることが見える。

冒頭の作品に登場する好恵の母は、小学生には全く理解できない変なおばさんに見えるが、そうではない。

さりげなく登場する好恵の姉(眉毛がなくてカーリーヘア…)はある意味中学生時代の紀子なのだ。

仮定の話だが、紀子に妹がいたとしよう。

中学に入って荒れ放題の紀子と、夫の浮気に心をさいなまれる紀子の母、彼女はストレスフルな日々を送っている。

自分の何がいけなかったのか、もう昔のような楽しい家族に戻る道は無いのか、毎日その問いを繰り返している。

無論、彼女にも自分自身がわかる欠点や汚点があり、だからこそ夫や娘だけのせいにして自分は無実の殻の中にいることはできない。

人間は、誰でも心に良心の呵責を抱えているのだ。

そこに末の娘がたくさんの友達を家に連れてきたら、暖かく迎えることが出来るだろうか?

高校時代のバイト先にいた憧れの円も、誰とでも寝る女だったかもしれない、というフリがある。

それはほんの少しだけ境遇や体験がずれただけの、紀子であり、春子であったかもしれない。

どのキャラクターも問題を抱えている。そういう行間の物語が随所に隠れている。

深沢サヨ子、アヤ、バイト先の清水、怪しげな部分や闇の部分しか書かれない人々も、当たり前だが悪人ではないだろう。

そう思って読みなおさせるだけの文章力を、森絵都は確かに持っている。

森絵都は紀子になにをさせたかったのか

では、本書は紀子を題材にして何を語っているのだろう?

前半は成功体験を重ねる気配も見せるが、中学以降はむしろ失敗体験が続く。

普通の中高生の切なさを語るにしては、紀子の体験は切ないという範囲を超えていくかに見えるが、微妙なところで踏みとどまっているようにも見える。

万引きは常習化しているようなのでモラルとしてはかなり逸脱してはいるが、シンナーにだけは手を出さなかった、という記述もあり、その後の恋愛を見るに性的体験も特になかったようだ。

どこにでもある中学生の体験ばかりだと、一般の成人読者には面白みに欠ける、というセールス上の配慮なのだろうか。

森絵都の線引きとしては、万引きや未成年の飲酒は悪事ではあるが、戻ってこれる範囲であることと、紀子の身体と精神をおとしめないギリギリのラインを狙ったのではないか。

ドラッグに手を染める、という可能性もあり得るような展開だが、それではさすがに切ないという範囲でおさまらない。

性行為はきれいに書くことも、なんとなく書くこともできるだろうが、そこに踏み込まなかったのは紀子という個性を大事にしたからか。

とは言え、彼女は成人後には自身の不倫や、結婚相手の不倫を体験しているようなので、高校生活中の性体験を書いても支障はなかったように思う。

さすがに12年間児童文学を書いてきた作家としての照れだろうか?

それは児童やハイティーンを書ききる決意だったのではないか?

上記の問いに、私は以下のような仮説を立てた。

彼女は本作から一般文芸に転向する決意を込めている。

今まで書いてきたジャンルが自身の居場所でありその作風が武器であったことは間違いないのだから、その武器や居心地の良かったジャンルを書ききって、今まで書いた作品を構成するきた少年少女たちに、別れを告げる事を望んだのではないだろうか。

 

エピローグの大半は20代後半になった彼女やその周囲の人々の後日譚に見えるが、それだけではない。

つまづき、傷つきながらも人生は続いていく。

不倫や不況など落とし穴は無限にある。

それでも、自分はどこかで笑っていられる図太さや強さを身につけて来た。

永遠に続く人生の営みは、困難やつまづきだけでなく、そこから不器用に這い出して来る自分自身も含んでいるのだ。

永遠の苦しみに出口が無いのではなく、人のなりわいは永遠に続いていき、出口なんていらないのではないか。

森絵都はそういう事を言っているのだと思う。

あの青々とした時代をともにくぐりぬけたみんなが、元気で、燃料を残して、たとえ尽きてもどこかで補充して、躓いても笑っていますように…

とは、自分自身と、読者と、過去自分が作り出したキャラクターの全てに、新たな道を行く彼女が愛情を込めて語っているのだ。

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