戦後という時代に生まれるべくして生まれた文学 - 桜桃の感想

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桜桃

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文章力
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ストーリー
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キャラクター
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戦後という時代に生まれるべくして生まれた文学

4.04.0
文章力
5.0
ストーリー
3.5
キャラクター
4.0
設定
3.5
演出
4.0

目次

家庭の中の男としての「太宰治」

太宰治は、本当におもしろい。どうして私が生まれるまで生きていて、待っていてくれなかったのか、とさえ思う。私は本当に、彼と友達になりたいと、心底思ったものだ。

「桜桃」を読み、そのついでに「ヴィヨンの妻」を読み、そして「父」、「家庭の幸福」、「おさん」を読むに至り、なんてまあワンパターンな作家だろう、と思ってしまった。これらの小説のテーマは、全部同じ、だめな父親とそのせいで悲惨な家族、そしてその父親の言い訳じみたアフォリズム、である。

もちろんここに出てくる一家の主、ともいえないような父親は、太宰本人を投影したものである。そしてそこに描かれているだめっぷりや言い訳っぽい草子地、といえようか、作者の自意識の注釈は、読者をリラックスさせる効果を持っている。なんてだめな男なんだ、と怒りたくなるような部分もあるが、例の横やりの注釈を見ると、思わずあきれて怒りも忘れてしまうような、微笑ましい気分になってしまう。

つまり、そういうことだ。太宰は、いや太宰の小説は、どうしようもなく人間くさい。弱いのだ。太宰は、何も包み隠そうとしない。自分のだめさ加減をわざわざ小説にして世に送り出す、それに何の名誉があろうか。芸術的にすぐれている、という解釈はいくらでもあろうが、あれだけ太宰本人のだめな父親振りをアピールするような小説をたくさん出せば、一般的に考えれば、世間の評価は偉大な小説家、というよりも、だめな父親、というほうに傾くだろう。太宰は、何のためにそんなことをしたのだろうか。

反省。書いて、自分を省みる。やはりそれに尽きるのではないだろうか。

書くという行為は不思議なもので、自分でも気づかない深く見えない部分を恐ろしいほど明確にしてくれたり、自分で思わずうなってしまうような素晴らしく筋の通った理論を何の前準備もなく立てられてしまったりする。太宰は、その書く力、書く魔法によって自分を見つめた。そうして、完全な私小説ではない、現実に基づいたおかしな虚構を作り出すにつけ、彼は必死で、自分の中の闇を、自分の中の病をどこかに押し隠し、願わくばそれを消そうと思っていたのではないか。もちろん消すことなどできはしない。ただうそを書き続けることで、救われるなんてうまい話は無い。彼は、自分の魂を浄化するために、書いたのだと思う。彼は、世間に対して自分を包み隠そうとしなかった。自分に対して、そうしていたのだ。

「子どもよりも親が大事」という言葉の裏にあるもの

「桜桃」、この十ページもない短い小説に、彼は何を見出し、何を求めたのだろう。彼の中からにじみ出る言葉は、子供よりも親が大事。子供よりも親のほうが弱い。

太宰、いや「私」は子供に負け、そして妻の涙に負けた。家庭が大事だと思っている、それでも自分が生きていくのに精一杯で、家庭を考える余裕などない、いやあっても、彼はそれを家庭のためには使わない、酒、仕事、遊び、それらに費やし、彼は家庭を大事には扱おうとしない。

彼は気まずいことが苦手だ、という。現実に足を下ろして生きることを厭い、始終冗談を言い、宙に浮いていようと思った。彼はそうして現実から足を離してまじめには生きようとしない、或いはそれを装うことによって、傷つくことを逃れていた。逃げていた。家庭に、子供に心底愛情を注いでしまったら、いつか突き放され、報われずに、傷つき血を流すのはこの自分だ、だから、家庭は大事だけれども、家庭のために何かを努めてしようとはしない、それが彼の生き方だった。

彼は生きるのが下手だ。ヤケ酒なんてしょっちゅうだ。仕事も、議論も、安々とうまくできるものではない。自分の生きるのに、精一杯なのだ。だから、子供よりも、親が大事、と、思いたいのだ。わかっている、自分が決して正しいとはいえないような行いをしていることを、だから彼は虚勢のように呟くのだ、子供よりも親が大事。

桜桃、という「戦後」

読者は、太宰の面白おかしさは、その心の煩いから来るものだと知って、そのだめっぷりに怒ったり嘲笑したりするようなことはなく、読み終わったあとの突き放された感じ、そのために、しんみりとした気持ちになる。太宰の心の暗闇は誰にも計り知れないけれど、その片鱗を、こうして文章の端々から垣間見ることが出来る。私は過去、彼の作品「春の盗賊」を読んだ時に本当に面白いと思い、太宰は落語家である、という誰かの意見を本当にそうだと思ったものだった。落語家は落語家である。が、哀しい落語家である。彼は、自分の心を救うために、濡れにぬれたその中身をひた隠そうとして、ただ道化り続けるしかなかったのである。その先に何があるか、何も見えず、やればやるほどますます暗闇が増し、そうして小説を書くということに見切りをつけ、遺書に書いたように、「いやにな」り、自殺した。その人生の、なんと哀しいことだろう。どうして、誰か、なんとかして彼を理解して救ってやれなかったものか、と悔まれて仕方が無い。

だが彼は、自殺することによってその人生を肯定したのかもしれない、とも思う。その終わり方は、小説同様、周りを突き放している。求めても手に入らず、もだえ続ける彼の叫びが、彗星の尾のように、そっと私たちの心に響くのである。

何が太宰をそこまで追い詰めたのか。それは、戦後という時代にもある。戦争を通過してきた彼の困難にもある。戦前から変わらぬ絶望感、それをどう扱っていいものやら、彼は模索していたのではないかと思う。今に生きる私たち若者には想像できないほど、戦争という目の前の現実は、とても大きく、それこそ骨の髄まで侵入し、染み込んでいたものだったのだろう。どうしようもなく受け入れるしかない事実、そこに迫る命の危険、生活の大きな変化、心構え、不安、自暴自棄、心酔、挑戦、当時の日本人は、それぞれに戦争を受け入れ、消化していたのだろう。残念ながら私は太宰の戦争に対する姿勢を知り得ないが、彼のそれは、決してよいものではなかったのだろう。いや、悪いものでもなかったのかもしれない。

「晩年」という彼の初期の作品集を読んでみると、「桜桃」とその時期の作品群との違いがよく見えておもしろい。彼は、芥川のように、しっかりと文学に取り組んでいる。芥川の名を出したのは適切ではないかもしれないが、歴史に材をとったものや、民話を近代文学に仕立てたものなど、芥川の小説と性格の似たものがある。小説家らしい、きちんとした仕事をしていると思う。少なくとも、作者の太宰の姿が如実に浮び上がってくるようなものが少ないのだ。それは戦争の直前、まだ日本が迷走を始める前だったのだろう。しかし、彼の自虐精神が匂ってくる作品も少なくは無い。どうにも自分を貶め、客観的に批判しているような作品すらある。彼の自虐的な心は、戦争前からあった。

そして戦後初期の作品を見てみると、たとえば「トカトントン」では、彼の心の虚無が実によくわかる。戦争は、彼の身体を、心を満たしていたものだったのだろう。自分の後先を考える際、必ずくっついてまわる戦争、切り離して考えることなどできようもなかった、空襲や疎開や憲兵が、一瞬にして、消え去ってしまった。彼の身体と心は、一瞬にして空っぽになってしまった。ふらふらと歩いていくうちに湧き上がる絶望感、そして戦争が終わっても何ひとつ変わらぬという事実、戦争が始まることによる以上に、終わることによって彼は打ちのめされてしまった。わずかな「戦後」という時代への希望、新しい時代への夢をなんとかどこかで支えながら、彼は虚無感を持て余し、変わらぬ自虐の心を抱えて彷徨っていた。

桜桃。つやつやとした赤い果実を、彼はまずそうに食べる。それは、戦後の象徴であったかもしれない。そして何より、その美しさは彼を決して救ってはくれないという、メタファーであったのかもしれない。

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