現実と非現実が完璧に調和した名作
鼠3部作と言われる作品
私はこのようにカテゴライズされていることにはあまり意味を感じない(ちなみに“青春3部作”“羊3部作”とも言われる)。そしてこのネーミングはあまりにも即物的にすぎる感じがして、好きではない。これらの作品は、登場人物である鼠がキーとなりストーリーが進むため、こう呼ばれるらしい。「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」そしてこの「羊をめぐる冒険」がその3部作となるのだけど、鼠はすべてに登場している。そしてどこか切ない思春期のような存在だ。この「羊をめぐる冒険」では初めて鼠の生い立ちがわずかなりとも明らかになり、それと同時に羊の存在も大きくフィーチャーされる。この物語の展開の仕方が実に個人的に好みで、この本は本当に何度も読み返している。
金持ちの家に生まれ何不自由ない生活を送れるはずの鼠が実家を離れ、放浪していくうちに北海道の恐らくは深い山の別荘で自ら死を選ぶところは、状況は少し違うけれど、映画「イントゥ・ザ・ワイルド」を思いだす。まさに自然に入り込み試行錯誤しながらも、恐らく彼は幸せだったと思う。あの壮絶な最期さえなければもっと何度も観ていたと思う(でもあの最後でなければあの映画があそこまで名作となっていないだろうから少し皮肉な話だ)。
とはいえ、やはり私自身は鼠よりも主人公“僕”に感情移入してしまう。“僕”はいつも冷静でいようと心がけながらも感情の起伏を時には見せ、いつもどこか人間的であることが親しみを感じるからだ。それに比べると鼠はどこかソフィスティケートされすぎのような感じがする。
名前の定義について彼らが語ること
この物語に登場する人物すべてに名前はない。主人公“僕”“ガールフレンド”“離婚した妻”…etc。村上春樹の小説はこのように名前に意味を持たさないときが多いように思う。そしてそれは全く違和感がなく展開し、終わる。気付いたら名前がなかったなと思うことも多い。とはいえこの「羊をめぐる冒険」に出てきた“ガールフレンド”は続編である「ダンス・ダンス・ダンス」で、キキという名を手に入れている。「ダンス・ダンス・ダンス」では主人公の“僕”以外名前がきちんとある。
名前の定義(と呼ぶべきもの)について、この「羊をめぐる冒険」で登場人物たちが語る場面がある。飛行機の便には名前があって、船には名前がある。名前の根本は生命の意識交流作業であるとして、と進んでいく運転手と彼らの会話は明快で好きな場面のひとつだ。マス・プロダクトのものには名前はないけれど、持ち主と“意識交流”した結果名前を与えられるというのもよくある。飛行機の便には名前はないけれど、馬的に使われている飛行機については(意識交流作業の結果)きちんと名前がある。なるほどと思えた。ところでこの小説の登場人物たちに名前がないのは、目的性だけなら番号ですむからなのか。考えてみたけれど、よくわからなかった。だけど、小説に関しては名前はそれほど重要でないことだけはよくわかる。
奇跡的な耳の持ち主であるガールフレンド
彼女が耳を開放すると世界が変わる。世の中が一歩自分から引いたような、一瞬周囲が波打ったような錯覚さえ覚える。だいたいこのような感じだったのだけど、その描写は本当に読み手に自分の周りから波が引いたような感覚を覚えさせるとても映像的な描写だった。。この物語は何度も読んでいるけれど(その度に新しい発見がある)、この場面は好きだ。一見普通の見た目の彼女が耳を開放すると一気に見たこともない美しさを持つ女性に変える。その美しさはきっと非現実的で、いわば雨上がりのあふれるような緑とか、古代エジプトの女王の揺るぎない気品とか、生まれたての猫とか、そういう美しさを凝縮したものなのだろうかと、その“美しさ”について考えてしまう。
また彼女は耳である種のイメージを感受できるらしく、電話がかかってくることを予知するだけでなく、札幌の何百とあるホテルの中からいるかホテルを選んだのも彼女だ。羊へ続く細いつながりは、彼女なしでは見つけることができなかったはずだ。
なのに後半鼠のいた山荘で急に姿を消した彼女に対して、“僕”の対応が少しあっさりしすぎているような気がしないでもない。あれほど彼女の耳に執着し出会うことのできた彼女なのだから、いなくなったことに関してもうすこし衝撃を受け動揺してほしかったと思う。。でもあえて文章にしていないだけで、“僕”の行動にそれはあふれていたのかもしれない。料理を作り家を掃除し、一時もじっとしていられなかったところがそうなのだろうか。にしても、あのようにふいっといなくなるということに、個人的にとても憧れた時期があった。荷物は最低限である日突然姿を消す。そして何のゆかりもないところで生活を始める。そういうことに甘い誘惑を感じた時期があった。今ではさすがにそれはできないけれど、それは永遠の憧れのような気がする。
彼女の雰囲気は短編「カンガルー日和」の女の子を思い出させる。主人公と彼女の会話は日常的でありながら日常的でなく、私にとっての理想でもある。あの魅力的な女の子と、この“ガールフレンド”は同一人物ではないかと思ったりもした。
羊をめぐる冒険、その解釈
このストーリーはまさに羊をめぐる冒険である。謎の力を与え、一方的に去って宿主の精神をからっぽにしてしまう羊を探し求めるのだけど、鼠が彼(彼女)を抱えたまま死んだので、その存在は永久に謎のままになってしまった。もしかしたら鼠の命が消える寸前に出て行ったのか、熟睡していたから気付かないまま一緒に死んだのか、わからない。
“僕”に一方的に使命を与えた“先生の秘書”はその羊を手に入れたかったのだろう。直接対峙するには危険があったから“僕”に探させたのだろうか。それにしても“羊つき”になるにはリスクが高すぎる社会的位置にいると思われる“先生の秘書”がここまでするということは、彼も案外“僕”と同じように、捨てるものはそうないのかもしれない。
羊といういわば牧歌的で平和的なシンボルのような存在が、この物語では忌まわしい亡霊やウィルスのように描かれている。そのイメージの落差が余計“羊つき”たちを不吉なものに感じさせる。
鼠の画策した“お茶会”で皆消えてしまったのだろうか。爆発した山荘の煙を“僕”が列車から見つめ続ける場面は映像的で、いつまでも心に残った。
村上春樹の羊
村上春樹の作品では動物がよく出てくる。ここに出てくる羊はもちろん、象やあしか、ちょっと違うけれど小人など、人間以外のものがでてくる。そしてそれらは動物として出てくるのではなく、言葉を話し、お茶を飲み、タバコを吸う(時には名刺交換さえする)。そういうのが個人的にはとても好きだ。コミカルさと現実さがうまく調和し、独特の世界を作り上げている。
今回出てくる羊男も羊博士も、他の短編で時々出てくる。同一人物かどうかはわからないけれど、彼のしゃべり方や動作から見ると同じ人物だと思われる。個人的には特に「シドニーのグリーンストリート」で出てくる羊博士が大好きだ(余談だけどシドニー・グリーンストリートなる俳優が存在する。村上春樹が知らなかったとは思えないので、なにかしら通じるものがあるのかもしれない)。
羊男も村上春樹の小説にたびたび出てくる。どこかおどおどして落ち着きのない様子や、そのなんとなく上目遣いである様子は、現実の羊の目つきを彷彿とさせる。そしてどこか憎めないのも共通している。その存在の不思議も、現実の羊の“ただそこに存在している感じ”をよく現していると思う。
この「羊をめぐる冒険」は次の「ダンス・ダンス・ダンス」にうまく引き継がれ、新たな世界を創り出している。これを読んだら次この「ダンス・ダンス・ダンス」を読まないわけにいかないだろう。こうしてまた村上春樹で夜が更けていってしまうのだ。
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