羊をめぐる冒険 耳が美しい女性は作家としての冒険?
1・考察概要
「羊をめぐる冒険」は1981年に発表され「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」の続編であり、この時点では「僕」と「鼠」シリーズの完結編である、と言うような背景やその作品の意味などは大人気作品の宿命として山ほど検討・考察されていると思うので、
ここでは「耳が美しい女性」を出すことが、作者にとっても冒険だったのではないか、という仮説を考察する。
2・もう少しだけ背景を書いておく
本書に先行する2作品はどちらもほぼ200ページ、長編と言ってもさっと読み切れる長さだったのに対して本作は一気に倍の400ページ超にアップしている。
1079年のデビュー時点では作者は喫茶店を経営していたが、本作発表の1年前、1980年に作家専業を決断している。
ここで何を言いたいか、というと今では超大物作家村上春樹もこの時点ではまだ駆け出しだった、という事だ。
そして駆け出しであるがゆえに、「耳が美しい女性」を究極に至高の存在にしてしまい、手に負えなくなったのではないか。
3・三作を通じて個性的女性が初登場
「風の歌を聴け」(以下「風の歌」と略)、にも1973年のピンボール(以下ピンボールと略)にも、もちろん女性は出てくる。
彼女たちなりに悩み、迷う姿も書かれているが、しかし、名前も与えられないケースがほとんどで、その時代を生きた女の子を記号化した存在、と呼んで差し支えない。
しかし、本作の「耳が素晴らしい女性」(以下キキと呼ぶ)は明らかに違う。
本作品時点では彼女も名前は無い。だがしかし、明確に能力と個性を持つ個人であり、他者に置き換えが効かない、という意味で作者が長編小説で初めて表現する女性、と呼んで差し支えないだろう。
これだけ重要な役なのに名前が無いのは何故だろうと思うが。
冷静に考えれば主役の二人も「僕」と「鼠」であり本名は無いのだ。
名前の件はさておき、もう一つ忘れてはならないのが、前2作に登場する女性と違い、耳を解放した彼女は「非現実的なまでに美しい」と表現されている点だ。
その美しさのレベルは「全てが宇宙のように膨張し、同時に全てが氷河の中に凝縮され・・・」と、いわゆる言語を絶する美しさなのだ。
これまで意図的に記号化してきた女の子たちと違い、この美しさ故に作者はキキに相対する時、照れがあったのかもしれない。
これを読んでいる人も想像してほしい、世界に名だたるこの作家が表現できない美しさを持った女性・・・架空の人物と時はいえ、他のキャラクターのように冷静に役割だけを配分することが出来るだろうか?
ノーベル賞候補者であり世界的作家である村上春樹と比べるのはあまりにも無謀だが、一応これを書いている私も小説を書いている。
同じ物書きとして断言するが、たまに現れる強烈な個性を持ったキャラクターは作者のコントロールを離れて、勝手に行動してしまうのだ。
耳を解放した直後、キキが登場するシーンで、他とは明らかにテンポや、トーンが違う場面がある。これは作者にとって未知数のキキを動かしてみながら、役割や行動パターンを決定付けていたのではないかと思われる。
① 旅の準備シーン:「僕」に対する愛情表現で過去「好き」と言った女性キャラはいたが
「僕」に「うまくいくわ」という慈しみを示す女性は初登場。これは彼女に「女神のような慈愛」を求めたのかもしれないが、あまり馴染まなかったようで、その後は割とクールな面も見せるようになる。
② 猫を運転手に預けるシーン:この運転手はそれ以前にも登場し神様に対するシュールな表現で一定の個性を示しているが、猫を預けるシーンではキキが介在することで親和性が増している。
全体に物悲しいシーンも多い本作で、この部分だけは別の話ではないかと思わせるほど、手放しに笑える。
知識と論理優先の「僕」、既存の習慣と乗り物などの無機物に愛情を注ぐ「運転手」、愛ある天然ボケの「キキ」の3人の絡みが小気味良く、話の展開上ほとんど必要が無いこの場面に10ページも割いている。
これを経てキキのキャラクター性は以下のように確定した。
・日常的な知識や生活処理能力は低い:この分野は「僕」の担当となる
・いるかホテルとの出会いなど、ひらめきの部分のみを彼女の担当とする。
・発言は無邪気な女性、というスタイル:このため「僕」が説明、彼女は聞き役という展開が増える
※キキ初登場の際、フレンチを食べながらの会話を仕切っているのは彼女なのだがその積極性はどこかに行ってしまった。
こうして実験が終了し物語が落ち着いていく
4・しかし、収束しきれなかったスーパーキャラ
上記のような予想外のキャラクター性が生まれたことは、作品を書き進めていく勢いもつく。羊博士の登場くらいまではキキは村上作品屈指の個性を持つ女性キャラである。
しかし、話が後半に入るとキキは急速に輝きを失う。
もともとクライマックスにはいなくなる設定ではあったのだろうが、北海道移動までの存在が強すぎて、おそらく大半の読者は「きっとまたでてくるだろう」と思ったのではあるまいか?
しかし、何も言わず姿を消し、わずかに羊男と鼠、いるかホテルの支配人のちょっとした説明があるだけだ。
完全にいなくなったことがわかった後で読み返してみると、十二瀧町移動中の列車の中では、彼女に止まった蛾が飛び去ったあと「彼女はほんの少しだけ年老いたように見えた。」
と既に以前の彼女ではない事が示唆されている。
そして決定的なのは彼女が消える前の最後のセリフだ。
「元気を出して、きっとうまくいくわよ。」という前半で捨てたと思われた慈愛キャラに戻っているのだ。
これによって作者は僕と鼠を1体1で邂逅させることができ、彼らの旅に決着をつけた。
クライマックスで全てを失って涙する「僕」・・・は感動的なシーンだ。確かに。
しかし、読者としては(あえてノルウェイの森風に言うが)、
「鼠が何だっていうんだ? 我々はキキを失ったんだ!あれほど美しい耳がこの世界から消え去ってしまったんだぞ!それなのにどうしてお前は鼠の話なんてしてるんだ?」
と言いたい。
正直、スーパーキャラにしすぎて手に負えなかった、と言うのが結論だろうか?
鼠との邂逅を終えて、いるかホテルに戻った「僕」が、キキは具合悪そうに一人去っていった、と聞くのが本作上での最後だ。あんなに輝いていたのに、あんなに神々しく登場したのにこんな帰結ってあるだろうか?
本作品で一旦完結し、羊三部作と言われたものの、数年後を舞台に描かれるダンス・ダンス・ダンスではキキ(ご存知の通りここで初めて名前が付与される)が再登場する。
全体観として「羊」までが喪失とされ、「ダンス」は再生と言われているが、人間村上春樹としては、完成できなかったキキを描くリベンジ作品という意味もあったかもしれない。
だって私なら、絶対にキキを札幌の街に放置したままにしたくないから。
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