幸か不幸か、時間を持つ男たちの物語
8つの短編からなる作品
私が読んだ吉村昭の中では最も現実的と言ってもいい物語かもしれない。この本には「星への旅」のような現実から遠のいたような静かさはなく、「羆」のように暗いものでもない。共通するテーマは、主人公たちが定年退職などで時間をもて余しているということだ。何十年も勤めて定年を迎えると、想像ではこれから会社に行かなくてもいいのだし自由に時間を使えるとわくわくしてしまうような気がするけれど、男性と女性の違いなのかここででてくる男たちは一様に時間をもてあまし、どうやって暇をやりすごすかということに日々強迫観念めいたものを感じている。そういった生活の中での一つの出来事がズームされて描かれている。
いくつかの話の主人公は妻を先に亡くしているので、その毎日をどう過ごしていいかわからないところに孤独感までプラスされてくる。今まで仕事で忙殺されていたところの時間がなくなった分、その淋しさがまともに来るのか、なにやら全体的に悠々自適とはいいがたい侘しさが伝わってくる。そこに訪れた小さな事件。それは何もない毎日に少しハリを与えてくれた、いわばモノクロだった毎日に、少しだけ色がついたという感じだろうか。そういう物語が収められている。
ジャパニーズホラーの原点を感じさせる作品
この中に収められている短編で一番好きなのは、一番最初に入っている「飲み友達」だ。ある男が在職中に同じ女性と親密な仲になりながらも勝手な理由などで面倒を見続けることができず、かといって捨て置くわけにもいかず、次に自分と同じような境遇の男性に紹介しその女性を引き渡す。そもそもそのスタイルも男性性の強調であるようにも思えるし、自分勝手な解釈を正当化しているような気持ち悪さはあったけれど、その女性の徹底した受身にも女性性の強調というか、薄気味悪さを感じた。その自らの存在を他者に感じさせないふるまいは時に奥ゆかしいものと映るのかもしれないが(それを好ましいと感じる男性たちがそもそも自分勝手極まりないと思うのだが)、読んでいるとただただ気持ち悪い。日本女性の受身や奥ゆかしさ、ひたすら待つといった暗さを煮詰めてまとったようなねっとりした雰囲気をまとわりつかせているように感じてしまい、どうしてこの男たちはそれを感じないのかがわからない。もともとこの男たちは自己満足的なプライドのみで後生大事に生きているようなので、相手の気持ちをそこまで斟酌するほどの器もないのかもしれない。
ところでこの久子という女性、どうしてこういう自分勝手な男たちと出会うのか、どこかでなにか利用しているのかメリットがあるのかどうかよくわからないが、最後の辻村と電話するシーンなど、まさにジャパニーズホラーの真髄と思わせるような薄気味悪さを感じた。グロテスクでも幽霊でもなんでもない普通の人間にこのような薄ら寒さを感じさせられることはあまりなかったので、ある意味感動した物語である。
生きながらえた男の余生と家族
当時画期的であるがゆえになかば実験的な手術を受け、奇跡的に成功し生きながらえることができた男の話が「花火」である。しばらく後に収められている「光る干潟」も内容から見ると同じ男が主人公と思われるので、同じ設定の物語だと思う。この物語を読むとなにかしら不思議な感じがする。例えば夜景を見ていて、その光の中にはひとつひとつの人間がいて、それぞれの生き方や悩みがあって…というような、どんどん対象が広がっていくようなあの感じがするのだ。宇宙のことを思っても同じような、広がってはつながっていくような感じがするのだけど、その感じとよく似ている。生きながらえることができたことによって伴侶を得ることができ、子供たちが世に誕生することができ、子供たちは成人してそれぞれ所帯を持ってまた新たな命を誕生させ、今自ら小さな孫を抱くことができたという単純ではあるがきっぱりとした真実にうたれて、しばし呆然としてしまっている様子が感じられる。
当たり前のことかもしれないが、一度死を目の当たりにして生還した人間はこの気持ちが強く働くのかもしれない。日常の何気ないワンシーンを切り取ったかのような(吉村昭はそのような短編がよくある)物語は、日常的なのになにかしら現実離れしたような感覚を与えてくれる。あまりに短い時間を緻密に描写するからなのか(村上龍の「空港にて」もその感覚が顕著だった)時間の感覚が麻痺するからかもしれない。この2つも気に入っている話だ。
自らも退職を願い出た妻の話
「あなたがが退職したように、私もあなたの身の回りの世話から退職し一人で暮らしたい」と言われ、信じられないながらも受け入れざるを得なくなってしまった夫の話である。テーマ自体はよくある話だと思う。退職金を手にするまでは我慢して、といういわゆる熟年離婚(この場合は別居だが)である。妻がどうしてこのような過激な非情とも思える行動を取ったのか、その背景は明らかでないため想像するしかない。結婚間近とはいえ娘はそのまま同居しているし、正常な会話もある以上「MONSTAR」のルンゲ刑事のように仕事に没頭した挙句家族に愛想をつかされたというわけでもないらしい。ただ、妻がその通告をした折の会話の節々にどこかしら彼女を軽視しているような、馬鹿にしているような感じもある。そういう細かい許せないものがたまりたまっての行動なのか、実にいさぎよいと思いたいのだけど、やはりその行動の背景を詳しく読みたかったところではある。若干消化不良があった物語だった。
タイトルの「寒牡丹」冬に咲く牡丹のことだけど、夫と離れ一人で生きていく凛とした美しさをイメージさせるつもりだったかもしれないが、そこまでこの妻に感情移入ができなかった。
人の死に業務として携わり続けた男
吉村昭の小説では“死”は恐らくテーマのひとつになっていて、ありとあらゆる方向からの死が描かれているように思う。この物語もそのひとつで、サラリーマンなのだけど社員の家族や社員自身の葬式などの手配がいつのまにか専門になっており、それ相当の知識や礼儀なども身についてしまっている。決して表に立たず遺族を影からいたわりといった様子は、もはや葬儀社のそれのようになっている。しかし彼自身どう感じているのか、その描写は全くない。
この物語で印象的な部分があった。私自身、葬式で亡くなった人との最期のお別れといって棺を覗き込むあの儀式が、どうしても好きになれない。なにか一方的に、相手のプライバシーもなにも関係なく、覗き込んでいるような気がするからだ。儀式に逆らうほどの若さと老獪さも両方ない以上、従わざるを得ないそれにいつも違和感を感じていた。この物語にもその点に追求するところがある。だからこそ君塚は自分が死んだときは窓のない棺にしてくれというのだ。この気持ちはとてもよく分かる。でもそう感じる人なら、葬式自体不必要と感じてもいいのではないかと思った。私自身がそうだからである。葬式も墓石も無用。ちょうどこの物語の「喫煙コーナー」で登場人物の弟が言っていたように。
この物語は日常がとりとめもなく進むように進んでいく。まるでそれは、なにかあっても忘れ去られて日常と化すように。
タイトルになっている「碇星」。碇星とはカシオペア座のことを言うと初めて知った。Wの形が和船の碇のようだと。主人公望月は君塚にこう言われて初めて、生を感じぬまま人の死に流されているのではないかと感じたのではないか。そうして毎日に流されてふと現世に留まりたいと願ったのだろうか。碇星はたまたま碇の形をとっていたけれど、生を感じられるものならもしかしたらなんでも良かったのかもしれない、と思わせるラストだった。
吉村昭から感じる作風
人の解剖やその中身だけでなく、生や死、それをとりまく日常の一コマをいとも簡単に切り取って、短編にしてしまう。普通のことなのにどうしてそこからこれほどの物語が紡ぎだせるのか。そして吉村昭独特の地に足がついた文章と、時がたった質のよい古さもそのストーリーにリアリティを醸し、何ともいえない風合いになっている。時にはそこに例えようもない静謐さも漂わせる。このような作品は(この年代に書かれた作品だと)他に類を見ない。彼の作品はまだまだもっと多いけれど、これからも色々読んでみたいと思っている。
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