今までよりも深い実生活の切り売りに感じる小説
大島は中島
この小説はフィクションの形をとっているけれど、きっとほぼノンフィクションであると思われる。内容はほぼ自叙伝になっているのでないだろうか。
今まで読んだ中島らもの作品だと「僕に踏まれた町と僕が踏まれた町」「頭の中がカユいんだ」とかだけど、どれも自叙伝的要素が強い作品だった。でも今回のこの作品「バンド・オブ・ザ・ナイト」はそれらよりも尚一層人生を切り売りして書かれているような、人生をさらけ出しているような印象を受ける。今まで読んだ中ではすべて第三者からは中島なり、らもんなりと呼ばれていたけれど、この本で初めて主人公を「大島」とし、フィクション風味を出してきている。他の本と共通する経験談を話している以上限りなく中島らも本人に近いのだろうけどすべてがすべてではないという一種の矜持なのか、登場する他者への思いやりなのかわからないけど、まあ大島は中島らもと思って間違いないだろう。
話の内容がそれで上下するわけでないとはいえ若干気になったけれど、それからはどんどん読み進むことになる。
初めて読んだ夫人の話
中島らもの作品をすべては読んでいないけれど、今回初めて夫人と思われる人の描写が数多くあった。「み」と呼ばれる彼女は恐らく美代子夫人であろうと思うのだけど、正直ここまではっちゃけた人だとは思っていなかったからかなりの衝撃を受けた。「アマニタ・パンセリナ」で初めて中島らもの「地獄ハウス(通称ヘルハウス)」の描写を読み、ここに奥さんと子供2人が一緒に住んでいたことに頭がくらくらしたものけれど、そこはきっと肝っ玉の据わった奥さんなんだなくらいに思っていたところ、なんのことはない、中島らもに負けるとも劣らない天然でアナーキーでパンクな人だったようだ。特に豆腐を買いにいって3日間帰ってこなかったところなど、好きな場面のひとつではある。とはいえ夫婦で子供が2人いるのにもかかわらず、様々なジャンキーたちが出入りし、薬の効果かアルコールの効果かはたまたその両方か、性的にもかなり開放的な暮らしだったことがまた衝撃的だった。
こういう暮らしを切って捨てるように評価する人もいるだろうし、唾棄すべき人格と攻撃する人もいると思う。そしてそうすることはとても簡単なことだ。でもなぜか彼の文章を読んでそうは思わない。それはなぜか彼らすべてが悲壮で悲惨でないからかもしれないし、なにかしらのんきな空気があるからかもしれない。それはなぜか本当によくわからない。でも彼らを攻撃する資格なんて誰にもないと思う。
魂の自由、観念の自由
中島らもにしても、奥さんの「み」にしても、結婚しているとはいえ、お互いほとんどそれの制約を受けておらず自由にしている。そしてこの2人にいたっては恋愛さえ自由である。らも自身は(あえて作品中は大島だが)結婚していながらも色々な女性を相手にしているが、奥さんの「み」だってヘルハウスに出入りしている岡本氏と恋愛をしている。そしてあろうことか「好きになったかもしれない」と大島に相談さえしているのだ。この自由さというか、嫉妬とか貞操とかそういう固定概念から程遠いところにある魂の広さというか、ある意味本当にすごいと感じる。もちろんこれは2人の中で成立している特殊な世界であるということを除いても、不倫だゲスだと日々騒ぐワイドショーがいかに低俗かということが実感できる。
ノルモレストなりドリデンなりそういったものを飲むと大脳皮質が麻痺し本能がむき出しになるという話が時々出てくる。猫の大ちゃんにドリデンを飲ませたらウサギの友達を食べてしまったという話がそれである。だとしたら薬の効果なら嫉妬心なり憎しみなりが前面にでてきそうなものなのにそれでないところがなんとも不思議である。ある意味悟りの境地までいかないと理解できない心境であるかもしれない。
「僕にはわからない」で、薬を飲んで手に入れる境地と、えらいお坊さんが修行して修行して得られる境地が一緒なら、それは同じことだというような文章がでてきた。薬を飲んでトリップするときの物質も、お坊さんがお経を唱えながら神仏への陶酔感で得られる脳内物質も同じもので、外から来たか内から来たかという違いだけだというものだった。ざっくりすぎてちょっと乱暴な文章になっているかもしれないけど、おおまかなところはそんなところだったと思う。その観念にびっくりした。誰しも薬は悪しきもので修行僧は聖なるもののような、言ってみると、あんまりなことを言うとバチがあたるよといった日本特有のじっとりしたものから離れられずにいる。でも中島らもの文章にはそういうじっとりしたものがまるっきりないのだ。そこにはなにかしら自由感を感じる。
とはいえ、中島らも自身も劇団でホラーを演じるときにはお祓いなどに行っていたらしい。なんとなくそこは可愛らしいようにも思う。
言葉のガトリング砲
この「バンド・オブ・ザ・ナイト」で最も印象的なのは、あの短い言葉の連射、軽い言葉でなく吟味されて投げつけられるような重さを感じるあの言葉の連射だろう。ただの羅列、でなく、撃ってくるというような動きのある言葉がふさわしい。しかもマシンガンのような小さい弾でなく、ガトリング砲のような重さ。あの5ページ、時には10ページ以上に及ぶあの部分を、私は読破できていない。なぜかというと、読んでいくうちに酩酊感を感じてしまい、文字通り目が回ってしまうのだ。しかもあの言葉の一つ一つは確実に意味をもち、その短い一言が脳内にくっきりとしたイメージを形づくる。それがいくつもいくつも叩きつけられてくるので、映画で言うとフラッシュバックの連続のような映像が自分の意思とは別に頭にどんどん流れ込んでくる。それと目でみる文章とあいまって、本当に目が回るのだ。ラリるとはこういうことかという気分にさえなる。
文章に句読点を入れなかったり、「」を効果的に使ったりというのは村上龍でもスティーブン・キングでもよくある。でも息切れするような効果はあっても、このように目が回ったりなどしない。本当にこの経験はすごい経験だと思う。
「頭の中がカユいんだ」でも同じような言葉の連射はあった。それも目が回った。でも今回のは別格という気がする。
この言葉の連射が始まる前には大島自身がラリったりショックを受けたり、様々な感情の起伏がある。その中にでてくる印象的な言葉が「胃の中で言語が崩れていく」というものだ。なんという文章を書くのか。この人天才だと思った文章の一つでもある。
魅力的な登場人物たち
この作品にでてくる登場人物たちは中島らもの様々な著書に共通して出てくる人たちでもある。カドくんもSもマイケルもココも名前を変えて(どっちが正解かはわからないけど)でてくる。「み」が言うことにはヘルハウスには1ヶ月のべ100人以上が居候していたらしい。食費や酒代をどのように捻出したのかはわからないけど、バキュームカーのおじさんの話だけでその人数が凄まじいことがわかる。何度も言うけど、そのヘルハウスに中島らも夫婦の子供2人がいたわけだから、恐れ入る。この2人の子供もきっと何かしら本を出しているだろう。機会があったら探してみたいものだ。
今まで読んだ作品にもこの作品にも、悲惨さや悲しみははあまり見当たらない。私が唯一悲惨に感じたのはショーンの死に方だった。どうしてあそこまで毎日オーバードースする必要があったのか。精神になにか深く谷間があったのかもしれないが、あの死に方はなにかしら紙くずとか新聞紙とかを想像してしまうわびしさがあった。
私もこれを読んで思った。彼に咳止めシロップと白い錠剤とウォッカを。
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