平凡でいることの難しさ - 家守綺譚の感想

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家守綺譚

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平凡でいることの難しさ

4.54.5
文章力
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目次

俗物な主人公と超然とした高堂


たぶん、読みおわって、皆不思議に思うと思う。なぜ主人公は葡萄を食べず、高堂は食べてしまったのか。なにかと迂闊で能天気な主人公のほうがうっかり手をだしそうで、いつも冷静で神経質そうな高堂のほうが、下手なことをしなさそうだ。ただ、高堂には少々鼻がつくところがある。主人公を俗物あつかいして小馬鹿にし、あやかし関連のことに、いちいち目を白黒させる主人公を尻目に、たかがそんなことで、というように涼しい顔をしている。たしかに、知識の深さも見識の広さも高堂のほうがあるし、自分で誇ってもいるのだろう。
にも関わらず現世では、満たされなかったのかもしれない。主人公が湖の底に行ったとき、葡萄をすすめてくれた人がこう言っている。ここにいればいいと。心穏やかに、美しい風景だけを眺め、品格の高いものとだけ言葉を交わして暮らして行ける。何も世俗に戻って、卑しい性根の俗物たちと関わりあって自分の気分まで下司に染まってゆくよう思いをすることはないと。高堂がこの誘いを、魅力に感じたということは、言われとおり、現世が卑しい連中がはびこるものと見なしていたのだと思う。そして自分は違うと。
おそらく昔から第六感的な感性がつよかった高堂は、世間になじめないところがあった。だからといって、自分以外の人間が、愚かで汚れているような見方をするのは、少々乱暴だ。たしかに俗物と言われる人は、せせこましい現実や日常にかまけて、隣りあわせにあるもう一つの世界に目が向きにくく、目を向けたとして、日々食っていけるかどうかのほうが大切で、飯の糧にならないものには、興味を示さない。ということは高堂の存在も、現世ではとくに尊重されることはない。異界に精通しているからといって、それで稼げたり食っていけんの?と思われる。そうやって第六感的な感性を、価値のないものと見なす現世では、高堂も平凡な人間だ。別にそれで、支障はないと思うも、自分はこんなにすごいのにと、認めてもらえないことが、おそらく高堂は不満だった。自分が非凡な人間だと思いたいのだ。いや、正確には、賞賛なり尊敬されたりして、そう思わせてほしい。のに、現実は厳しく、周りは高堂を他と変わらない人間と見なす。それが気に食わなくて、自分がすごくない、のではなく、周りがすごさに気づかないだけと、思おうとした。すごさに気づかない人は、現実の目先の欲にしか見えていないのだと。
卑しい人間ばっかりだと、世を嘆くふりをしつつ、すごさが認められない自分を正当化していた。高堂は聡いので、その自覚があり、周りのほうが悪いと思いこむには至れず、本当に自分はすごい人間でないのではないかと、不安を抱えていたのだろう。だからこそ、気づかないほうが愚かなのであって、あなたは別格だと、人に言われて、誘惑するための、おべっかにも関わらず、やはり自分はまちがっていなかったと、浮かれてしまったわけだ。


平凡でいることに拘っていた主人公


たしかに、誰でも、自分は非凡だとか特別だとか、思いたいし、思われたいものだと思う。が、主人公には、あまりそんな大層な志はなさそうだった。家守をするようになって、異界に触れることの多くなった主人公は、でも、いつまでも、なじむことがない。証拠に何度もこりずに、化かされている。現世と異界と、境界が曖昧なところにいるのを、分かっているだろうに、人を見たら狸や狐でなく、人と思う、日常の感覚を持ったままでいるのだった。かといって、主人公がのん気だとか鈍感だからというわけではないと思う。普通は見えない異界を覗け、そこの住人と交流できるとなると、誰でもできるととでないから、自分は選ばれし人間か、特殊な能力が備わっているのではないかと、むしろ、安易に思いやすい。結果的に、高堂が葡萄を食べてしまい、現世にもどれなくなったということは、そう思ったことで、罠にかかったとも、とらえられるから、人の感情としては、身の破滅を招く厄介なものといえる。決して愚鈍ではなく、理性的な高堂さえ、陥っていてしまった心理なら、抗うのは相当難しいだろう。ということは、葡萄を食べなかった主人公には、意外にも強い意志があったわけだ。たまたま異界に迷いこんだだけで、自分は変わらず平凡な人間だと、意地をはるようにしていたのかもしれない。こういうと、おかしいが、平凡な人間でいることが、主人公の信念だったのではないかと思う。


特別な人間になったつもりで流されただけの高堂

平凡といえば、あまりいい印象はない。人としてつまらなく、自分を持っていないように思える。逆に、非凡な人は自分を持っているように思えるが、でも、その人がすばらしいだとか特別だとか、見なしたり評価したりするのは、たいてい他人だ。自分で思ったところで、完璧に客観的に判断はできないから、信用はできない。他人にしたって、自分の利益になるかないか、都合がいいか悪いか、気に食わないか好ましいかなど、思惑や嫉妬がからんでくるから、あてにはならない。第一、他人がすごいと思ったら、自分はすごい人間ということになる、との理屈なら、他人がすごいと思わなくなったら、そうでなくなってしまう。スターでも、そのうち飽きられて、テレビで観なくなるのと一緒だ。ということは、その人が、もともとすごかったから、スターになった、のではないということだ。他人にすごいと、思われたから、スターになれた。なら、スターでいつづけるには、他人にすごいと思われることを、すればいい。自分が、したくなくても。そうすることが、自分を持っているとは言えないだろう。
他人にすごいと思われるのは、嬉しい。でも、嬉しさのあまり他人にすごいと思われることばかりして、本当はしたくないと思っている上、他に自分にはしたいことがあるというのなら、なんのためにしているのか、分からない。それでいて、嬉しいというのは、負の感情でないし、厄介なものとは思わないから、自分を見失っていることに、人は気づきにくい。だから、皮肉なことに、気づく人のほうが、すごいのだ。葡萄をすすめられ、いったんは怒ったように突きはなした主人公のように。はじめは葡萄を食べたいと思った。あなたは他の人間ちがって、魂が汚れていない、というようなことを言われて、嬉しくもあった。ただ、異界に留まってしまっては、現世の人に、この貴重な経験を伝えられなくなる。文章にしたい、そして読んでもらいたいとの、物書きの性や使命感が疼いた。そう考えるうちに、その思いを阻む、異界の住人に誘われた嬉しさが、邪魔に思えてきたのかもしれない。
果たして、そんなふうに嬉しさを疎ましがることができる人が、この世にどれだけいるのかと思う。常人ばなれした高堂のほうが、案外流されやすくて、ある意味人間らしく、凡庸そうな主人公のほうが、平凡さにぶれがなさすぎて、却って凄みがあるというのだから、人は一見したところでは分からず、おもしろいものだと、つくづく思うのだった。

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穏やかな雰囲気ながらも、どこか背筋がぴんと伸びる思いがする、梨木香歩の「家守綺譚」

南禅寺のほど近く。学生時代に亡くなった親友・高堂の家の守をすることになった綿貫征四郎は、細々と文章を書きながら、貧しい生活を送っています。そんな征四郎の前に、ある雨の日に現れたのは、死んだはずの高堂。床の間にかかっている水辺の風景の掛け軸の中から、ボートに乗って出てきたのです。舞台となる時代としては、明治か大正のようです。まるで夏目漱石の「夢十夜」のような雰囲気の小説です。植物を題名に持つ短い物語が28収められています。現実の世界と異界の境目が曖昧で、ごく当たり前のように、不思議なことが主人公の周りに起こります。それは亡くなったはずの高堂が掛け軸の中から出てきたり、主人公がサルスベリの木に惚れられたり、河童や小鬼といったあやかしが出てきたり、しかも河童と犬のゴローが懇意になってしまったりというようなこと。しかしそれらの不思議は、この世界の中にごく自然に存在していますし、そこを流れているの...この感想を読む

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  • dreamerdreamer
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