リドリー・スコットの独自の世界。映画と社会。
フェミニスト映画?それともリベンジ映画?
テルマ&ルイーズが公開された年、本作はアメリカで大きな社会現象を巻き起こし話題を呼んだ。それは本作がフェミニスト映画か否かという議論で意見が二つに分かれたためである。加えて、当時アメリカ本土を含む女性の社会進出を掲げるフェニズム運動が盛んに行われていた背景もあった。フェミニスト映画だと唱える人々の主張は、映画の反男性的な側面に注目したもので女性が男性に抑圧されることなく自由気ままに旅を続ける姿は紛れもなく社会での女性の活躍の可能性を広めた映画だというもの。確かに本作ではテルマやルイーズが男性に屈する描写は一切含まれておらず、むしろ男性を出し抜き、銃で脅すシーンが印象的なのは事実である。また、基本的な映画に見られる男女の役割が逆転している点も要因しているだろう。
ただ、ここで興味深い点は本作がフェミニスト映画ではないと主張していたのもアメリカの女権論者達であった点だった。彼女達はフェミニズムに対しての認識や理念が前者とは違ったのである。彼女達の目指すフェミニズムとは知性と共にあるべきであって、決して男性に対しての報復であってはならないものだった。そこで、銃や暴力が含まれる本作のフェミニズム的理解は許されないと考えたのである。
このような社会的意見の違いがよりテルマ&ルイーズに話題性を吹き込んだのである。ちなみに脚本家であるカーリー・クーリは後にインタビューの中で物語にそのような政治的意図はないと断言している。しかし観客からのフィードバックも映画を構築する要素と考えるのであれば、製作側の意図と観客が受け取る心情が一致しなかったとしても本作のフェミニスト的視点は否定できないものだと考えても良いだろう。
女性の声は届くのか?
物語で女性の立場を優位に立たせる要因として銃の所持が挙げられる。彼女達のすべての犯罪シーンには銃が絡んでいるのだ。この要素を深く追求すると、彼女達の男性に対する支配権は一時的な力にすぎないという見方もできる。ルイーズが男を射殺するシーンを例に挙げてみよう。男が興奮気味にテルマを強姦しかけている男のミディアムショットの状態でルイーズの声だけが入る。男は彼女の抑止を気にする素振りも見せずに強姦を続ける。またもや同じ男のミディアムショットではあるが、画面左側から銃を握ったルイーズの腕が伸びるのである。そこで男は強姦を止め、ゆっくりとルイーズの方へと振り向く。この一連の流れは銃の役割と男女の力関係を示していると考察できる。つまりは、銃なしで男を止めようとしても彼女の声は男の耳には入らないが、銃を持って話しかけると力関係が対等になり、ようやく会話が成立するのだ。このことから、銃もしくは暴力が女性にもたらす力は大きいことが見て取れる。確かに、映画において強い女性と認識されているキャラクターは銃を手にしているイメージがあることも事実だ。(ターミネーター2 / サラ・コナー、トゥームレイダー / ララ・クロフト、バイオハザード / アリス etc.)
クラシックな物語構成との対象
ジャンル指定に関しても多くの意見が寄せられているテルマ&ルイーズ。そもそもジャンルとは配給会社の商法的な利便性の向上によってカテゴライズされたものが一般的に普及した物だという説もあるが、作品の特性上の都合でジャンルの分類は困難なものである。本作品のジャンルはどうだろうか?一般的にはロードトリップ映画として認知されている。しかし他にもアウトロー映画という意見もあれば、バディー映画との声もある。恐らく、これらのどれもが間違ってはいないだろう。しかしロードトリップ映画やアウトロー映画に共通して見られるある特徴が本作では見受けられないのだ。それは所有物の消失だ。多くの同ジャンルの映画の物語の中で、キャラクター達は彼らの自由と引き換えに何かを失い続けることが多く見られる。しかし、本作は何かを失うどころか常に何かを手に入れて彼女達は旅をするのだ。彼女達の所持品の変化に着目を例に挙げると、最初は一丁だけであった銃が警察官から奪った銃を含め最終的には二丁になる。二人が被っている帽子やハットも最初から所持していた物ではなく、道中に手に入れた物である。金に関しても一度は失いはしたが、後に強盗で得たまとまった額の金を手にするのである。このことから、本作はジャンルカテゴリーの在り方に一石を投じた作品だったということが導き出せる。
希望か?絶望か?
本作のラストシーンはアメリカ映画史の中でも最も議論されているエンディングの一つと言っても過言ではないだろう。さて、この終わり方はテルマとルイーズにとって希望がもたらした選択なのか、絶望が生んでしまった悲劇なのか。捉え方は一概にどちらという風には決めがたいものだろう。この映画は全体を通して捉え方の選択肢が豊富な作品のように思える。物語のそれぞれの描写に観客の捉え方に自由がある。その選択肢の組み合わせの結果、彼女達に希望を見ることも出来るし、絶望が見えてしまう場合もある。それだけの作品だからこそ、物語各所において議論が尽きないのではないか。それこそが本作が体現するLiberty(自由)の在り方であり、リドリー・スコットが提唱したかった物なのかもしれない。
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