「最後の誘惑」とは何か
聖書は「有益」な読みものか?
結論から先に言えば、この手の映画を楽しむためにのみ有益だと言える。本編のプロローグにもある通り、この映画はキリスト教が採用している福音書とはまったく別の創作ストーリーだ。ハーヴェイ・カイテルの演技が渋いユダのスタンスなどは外典「ユダの福音書」からのアイデアだし、サタンも炎(カルシファ)として描写されている。そうかと思えば、マグダラのマリアが聖典と同じく「罪の女」として登場していたり、グノーシスの思想が採用されていたりと非常に面白く鑑賞した。この特権は偏った信仰をもたず、聖書や古代文献の知識を蓄えた人だけのものだ。
確かに、娼婦が登場するほうがドラマ的にも面白い。当時、娼婦はユダヤの掟で死罪にあたる卑しい職業で、死ぬまで石を投げつける「石打ち刑」の対象だった。ゼベダイ自身も告白していたが、この合法リンチは当時のたのしい娯楽のひとつだったことだろう。この時、マリアを庇って「このなかに一度も罪を犯したことにないものが女に石を投げろ」とイエスが凄むシーンは、イエスの物語の中でも最も有名なエピソードのひとつで、大きな見どころだ。しかし実際のマグダラは娼婦ではなく、イエスの弟子のひとりだった。妻だったという説もある。
新約聖書の古代ギリシャ語原典にはこの「娼婦の石打ち」のクダリは存在しない。後世のキリスト教会によってねつ造され、加筆された箇所のひとつとして知られている。イエスは「すべての人は神の子で、罪がない」と主張している。そのイエスは罪人の足元を見て説教するのは不自然だし、この映画のように人の姦通罪を告発することもなかったと思う。あのシーンは、誰も知るはずのない個人的な秘め事も神は全てお見通しで、イエスはそんな神の意志を表現する預言者として描かれている。水をワインに変える場面では確信に満ちているが、ラザロがゾンビとして蘇ったときはドン引きしていることからも伺える。
マグダラのマリアが死んですぐにベタニアのマリアへと転ぶくだりもニヤニヤしてしまう。この二人は西方教会では同一人物とされている。このように、聖書の聖典と外典が混ぜ混ぜになってストーリーが進んでいく。その解釈を採用することで原作者や監督が何を表現したかったのか、その意図を推理するのがこの映画の面白さであり、なぜサタンにこのセリフを語らせるのか?と、いくらでも深読みできる映画だ。私は原作を読んだことはないが、当時この書物はカトリックによって禁書とされ、彼の死後は墓までがひどく卑しめられたそうだ。酷評を恐れず撮った監督もすごいと思う。
配役と世界観が良かった
妙に頼りがいのあるユダ役のハーヴェイ・カイテルは存在感たっぷりの陰の主役だ。素朴で憎めないペテロ役のヴィクター・アルゴもイメージにぴったりで、本人を見ているかのような錯覚を覚えた。使徒たちが徐々に集まってくる場面は感動的だ。マグダラ役のバーバラ・ハーシーはエキゾチックな美しさが魅力だが、イエスに比べ個性が強過ぎて、私には物語から少し浮いているように見えた。
サントラも良かったし、ストーリ中でずっと流れている町々の音楽もすごくよかった。撮影はモロッコで行われたらしいが、ガリラヤやベタニアの町並みは素晴らしく、独特の世界観を楽しめる。ウィレム・デフォーはあまり好きな俳優ではないけれど、ちょっと軽い感じのイエスはこの映画に合っていて良かった。
私は今から15年ほど前にいわゆる覚醒体験というのを経験したことがある。今でこそブログなどで多くの人が似たような体験を披露しているが、ネットがまだ今ほど普及していなかった当時はそれこそ天地がひっくりかえるかと思うほどの体験だった。急に饒舌になって愛を語り、目に映るすべてのものが美しく、世界が光り輝いて見えたりするのだ。ウィレム・デフォーのイエスように、ポエムを呟いたりする。何の威厳もなく、興奮気味に自分の体験を吹聴するこの映画のイエスに、私は当時の自分を重ねた。あんな風になるのが普通の人間であり、おそらくイエスも普通の人間だった。
人は自己の内面を世界に投影してそれを嫌悪し、完膚なきまでに攻撃するといわれる。これは自我の特性で、自分の罪は死に値するほど深いと認識しているため直視できないのだ。潜在意識の奥では磔刑も当然と思うほどその罪を憎んでいる。私はその想念こそが人間・イエスの正体だと考えている。いま流行のスピリチュアルでも散々言われていることだが、つまり相手への攻撃は自分への憎悪の表れであり、自己欺瞞だ。だからこそイエスは自分自身のように人を愛せと説いた。そしてキリストの霊は、この罪の意識から人を開放するために存在するのだ。
世の中にはイエス・キリストが実在しなかったと主張する人もいると聞いたが、これらの理由で私は「存在しなかったわけがない」と思う。キリスト教徒が信じるような例えばジム・カヴィーゼルとか、ディオゴ・モルガドみたいなイエスは存在しなかったかもしれないが、キリスト精神と一体化した人間は、過去に数多く存在したはずだ。
「最後の誘惑」とは何だったのか
聖書を読んでいると時々ゲンナリするような展開に直面する。なぜキリスト教会は、これだけ聖書を改ざんしておきながら、この箇所を削除しなかったのかと不思議に思う箇所がいくつもある。その中の一つが、磔刑に処されたイエスが最後に発するあまりにも有名なセリフ「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ(我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか)」だ。神に愛されたひとり児であり、神自身だと自ら語ったメシアの最期のセリフがこれかとばかり失望する。古代の教会もこれには困惑し、「(贖罪が)成し遂げられた」という最後の決め台詞を加筆したといわれている。つまり神の子として最後まで達観して死んでいったという設定に“ねつ造”されているのだ。
そんなこととは無関係に、この映画の中ではこの「成し遂げられた」というセリフがとても活きている。誘惑に負けそうになったイエスが、祈りによって無事に十字架上に戻れたのだ。思わず笑ってしまった。勝手な想像だが、原作者は「エリ、エリ」と「成し遂げられた」という二つの台詞の間にある違和感にフィーチャーしてこの作品を生み出したのではないだろうか。
イエスが十字架を背負って、磔刑場であるゴルゴダへと続く“苦難の道”を歩くシーンは心に残る。まず映像の美しさと空気感。カリスマ預言者の姿を一目見ようと狭い路地に押しかけひしめき合う民衆たちの表情が生き生きと描かれている。一人ひとりの表情を通して、当時のイエスの微妙な立場を見事に描き出しており、いろいろなことを考えさせられる最も素晴らしいシーンのひとつだ。イエスが砂漠でサタンの誘惑を退けるシーンが却って陳腐にみえたのでマイナス1点。
当時、イエスの支持者は女性が多かったといわれている。一部では奇抜な新興宗教と認識されていたイエスの説教に一家の主婦が入れ込めば、家庭内で問題になることもあっただろう。バツ悪そうにそっと物陰に隠れる女性の姿、あからさまに嘲笑う老人たちや、目の前の悲劇を楽しむ男たちの姿からは、そんな些細なドラマが連想される。期待していた革命家ではなかったイエスに幻滅した男たちの姿も見える。福音を理解し、心の平安を得て精神の拠り所としていたものや、最後までは悲嘆にくれた。一番感情移入しやすい民衆の姿だ。
この映画の面白味は、イエスが十字架から降りたあとに展開されるドラマにある。イエスが使徒パウロと対峙する場面は特に面白い。パウロはイエスと生きた時代が違うので実際には会っていないが、聖霊によって改心し、一番弟子のペトロと並ぶ偉大な使徒として知られるようになる。現代のキリスト教を揶揄して「パウロ教」との別名もあるほど、独自の解釈で愛を説いている。そのパウロの言い草が秀逸なのだ。イエス本人を目の前にして「細かいことはどうでも良い、人々は救いを求めているのだ」と訴える。聖者の権威を利用し、独自の解釈で民衆をコントロールしようとする宗教への皮肉たっぷりではないか。
ところで「最後の誘惑」とは何だろう。この映画に決まった答えを求めることは難しいが、原作者の考えは知りたいと思い、何度かDVDを見返した。目の前の苦痛からの救済や、平凡な暮らしへの埋没を意味しているようにも思えるが、生き延びて老いさらばえ、愛する者の死やエルサレムの陥落を見るところまでフォローするサタンが不自然だ。しかもユダの怒りは、十字架から逃れたイエスの罪悪感を表現している。この映画のイエスは責任感やカリスマの地位に固執して十字架に戻ったわけではないと思うが、動機としては十分とも思えるので、誘惑としては成立しない。
その辺りの描き方が分かりづらく、雑な気がするが、ここで表現されている“誘惑”とは「お前は神の子ではない」というサタンのシンプルなメッセージだと受け取った。これを「平凡が一番」「だけどキリストは生贄になる運命だった」で終わらせるのは少し勿体ないし、原作者の意図ではないと思うのだ。全ての人は罪のない神の子であり、深い罪悪感がその自覚を妨げているに過ぎないのだから。
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