終わりなきポーポー語探求家、小川洋子の世界
ポーポー語について考える
小川洋子2012年発表の30作目の小説。発表当時は12年ぶりの書き下ろし長編、とやたら紹介されていた。読んでみると、あまり大きな事件などが無いことや、その静かな世界観は確かに連載小説には向いていないな、と感じる。とはいえ私が着目したのはそこではなく、ポーポー語だ。
作品中の謎の小道具や出来事を、これは○○のメタファーである、とか社会の風潮を暗に示している、とか無理やり何かに関連付けしたがる人がいる。作中語られなかった部分を解明したいと思う人もよく見る。しかし私は作者が語っていない箇所は謎のままで良いし、必要以上に深読みしたりするのは作品本来の意味合いを損なう行為だと思う。作者は説明していない箇所は謎にしておきたいのだろうし、私自身も文章を書くとき全ての事柄に比喩を込めたりはしない。
しかし、この作品のポーポー語には自分なりに言及したいことがある。以下それについて語る
「ポーポー語を使うお兄さん」は「文学の世界で生きる小川洋子」に似ている
エッセイ集「犬のしっぽを撫でながら」の中で彼女は自分の著作を以下のように語っている。「私はストーリーが書きたいわけではありません。私が書きたいのは人間であり、その人間が生きている場所であり、人と人の間に通い合う感情なのです」
本作に登場するお兄さんはポーポー語しか話さない。従来の言葉が使えなくなったのか、使わなくなったのか、その理由は言及されないし、実際にどんな言葉なのかもあまり説明されない。前項で書いたように小川洋子にとって、お兄さんがなぜそんな状況になったのかは重要ではない。一般社会からは不思議、あるいは不気味な存在になってしまうとしても、お兄さん自身が元の言葉を取り戻そうともがくところなど微塵も書かれていないし、恥ずかしがったり悲しんだりする様子は全く見えない。お兄さんにとっては問題ないことであり、これがこの物語に登場するお兄さんというキャラクターなのだ。
当然最後まで読んだ読者は、人間には理解されなくても鳥たちと話すことができる素晴らしい言葉、ということはわかっているだろう。
私はこれを小川洋子本人に当てはめたい。彼女の作品には「博士の愛した数式」のようにわかりやすくドラマチックなものもあるが、それは稀なケース。「揚羽蝶が壊れる時」でのデビュー以来、表現力の探求に重きを置いており、ストーリーありきで小説を書き始めることはないらしい。本書の刊行時、トーハン社が彼女に行ったインタビューを抜粋する。
「幼稚園の鳥小屋の風景とか、兄弟が暮らしている家の間取りとか、お兄さんが作るブローチの造形とかが鮮やかに頭の中にあって、それを言葉で追いかけていくと自然にストーリーになっていきました。」
彼女は以前から同様のことをエッセイやインタビューで話しているので、本作のみでなくこのような形で作品を生み出すのが常らしい。
また、「映像に言葉の方が追いつかないんですよ」とも言っている。
つまり、脳内に浮かんだ美しいヴィジョンをいかに言葉で表現できるかが、彼女の作品そのものなのだ。上記の「揚羽蝶が壊れる時」や「完璧な病室」などでは一つ一つの言葉選びに恐ろしく手をかけた気配が見え、正直なところ読者は少し置いてけぼりでわかりにくさが先行しているともいえる。しかし20年以上執筆活動を続けた結果、彼女の作品にわかりにくいストーリーはあってもわかりにくい文章は見られなくなった。むしろさらりと読んでも状況が目に浮かび、読み込むほどにその画像が鮮明になっていく、という域に達したと私は思う。本作でも何度となく描かれることりたちの描写は、彼女が表現方法として探求してきた結果、すっきりとわかりやすく、しかしとても奥深い。例えば家の離れが崩れ、朽ちていく表現では馴染みが薄かった父との微妙な関係からくる気まずさを表しつつ、しかし時とともにそれが浄化されていくことが、ほとんど情景描写のみで書かれている。そしてしばらくして、お兄さんの手によって改造されバードテーブルになってからは陰惨さや切なさはなく、二人の心を慰める場になったことが、これまた情景のみで表される。「ふたりは○○と思った」というような説明はほとんど使われず、情景や動作を文章で再現することでキャラクターの気持ちを私たち読者に伝えている。これこそが小川洋子のポーポー語なのだ。
終わりなきポーポー語探求の道
彼女はデビューから数年は「わかりにくい」「表現過剰」「内容が不気味」などと評されることもあった。それでも彼女は自分の言葉選びに磨きをかけ、脳裏に浮かぶ美しい映像を表現することに尽力した。その結果彼女のポーポー語は美しく洗練された。わからない人にはわからなくてもいいという時代もあったかもしれない。しかし今は一定の域に達し、自然な姿となっている。例えば公園にいる時、鳥の声がするな、と気づくことがあるだろう。鳥はその時鳴き始めたのではなく、あなたが来る前から美しくさえずっていたのだが、あなたの心が落ち着いた時初めて認識したのだ。それほどに鳥の声は自然であり、小川洋子の表現もそういうレベルに達しているのだ。彼女は読者の鼓動を高めるようなショッキングな表現はあまり使わない。そのため注意しなければそのまま流れてしまう。しかし注意さえ向ければ、彼女の文章は動物の息吹を伝え、波の音を届け、風の音を奏でる。
彼女は本書発表際する対談で、映像作家である鹿野護氏に以下のように語っている。(インタビューマガジン、カンバセーションズ掲載)
「映像で見ているときには非常に生き生きとして好ましかったものが、言葉に置き換えていく過程で(中略)感動の大半が削がれてしまう(中略)。私が見たレモンイエローのブローチはもっと良かったのに!」
彼女のポーポー語にはまだ先がある。終わりなど無いのかもしれない。その行く先をファンとして静かに見守りたい。
もう一つ、ちょっとだけ語りたいこと
本作に出てくる図書館の司書について。彼女が登場する50ページあまりは本作のちょうど中間地点に当たる。この50ページは本作中最高に(しかし少しだけ)心拍数が上がる。直接的な恋愛をあまり書くことがない小川作品で、男性から見て「こんな女性と知り合ったら自分も目で追ってしまうな」と思わせる数少ないキャラクターだ。小川洋子が影響を受けた村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」でも図書館のリファレンスの女性が登場し、こちらも魅力的な女性として描かれているが、村上作品では性愛の対象でもあり、位置づけは大きく異なっている。本作の図書館の司書は、もちろん人間なのだが、この時点で壮年に達している小父さんにとってはことりに匹敵する純愛(アガペーというべきか?)の対象だ。若干の気まずさはあるものの、彼女自身は1ミリも人間性の悪い面を見せず、美しいまま姿を消す。前出のトーハン社のインタビューで彼女は恋愛について以下のように語っている。
「恋愛はウィークポイントです(笑)(中略)自分なりに作戦を立てないと男女の恋愛が書けない」
上記は謙遜も含むかもしれないが、この部分は彼女の20年以上の活動、30冊以上の小説のなかで一番美しい恋愛の記述だと私は思う。こういう作風で一冊書き上げてもらえないかな、とひそかに熱望する。
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