こんなにきれいな小説があるなんて(本作にぴったりの一曲を添えて)
こんなにきれいな小説があるなんて
種も仕掛けもございません。
そこにあるのは、午後6時に開店するパリの裏町にありそうなビストロ風食堂。お客さんはいつも顔なじみばかり。
この小説は、そんな月舟町の十字路の角にある、どこか懐かしい雰囲気のつむじ風食堂に集う“先生”と、お客さんを描いたたわいないお話だ。
こんなにきれいな小説があるなんて。
本作を読み終えて、最初に感じたのが、これだった。
つむじ風食堂に出てくる料理―クロケット、ステーキ、オムライス、サーモン定食などなど―はとても美味しそうで、個性派揃いの登場人物―おしゃべりな帽子屋さん、イルクーツクへ星を描きに行きたい果物屋さん―も魅力的。“先生”と奈々津さんとのオレンジを交えた、いい大人の淡い恋愛も素敵。
どこか遠くの離島にぽっかり広がった世界のようで、なんだかすべてが夢の中のつくりごとみたいで、最初から最後まで、やさしい言葉でていねいに紡がれた物語だった。
この世界観と感性を生み出す作家吉田篤弘に、私は嫉妬した。
何気なく、ありふれたやり取りが最大の魅力
この小説の最大の魅力は、主人公である雨を降らせる研究をしている“先生”とつむじ風食堂に集うお客さんたちの、何気なくありふれたやり取りだろう。
古本屋の親方が先生にだけは本を300万円で売りつけたり、果物屋の青年が二重空間移動装置なる万歩計を売りつけてきたり、帽子屋が亡き父とよく似た帽子を見つけてきたり。
取り立てて目立つストーリーがあるわけではなく、起承転結もなく、ただゆったりとした時間が流れていく。
理に適うものばかりが良いわけではないことを、その魅力として最大限に伝えているのだと思う。
その中で、ほんの少しキュンとなるエピソードがあった。
心穏やかな先生と、看板ではない舞台女優の奈々津さんとの淡い恋だ。
面と向かって話しづらいことを、二人は果物屋さんで買ったオレンジとレシートの裏に走り書きしたメッセージで伝え合う。同じ月舟アパートの住民だというのに、階段のそばにそっとオレンジを置いておく二人。
いい大人たちが、まるで少女の交換日記みたいに、オレンジのやり取りをするのだ。
果物屋にはオレンジの他にもたくさんの果物があるけれど、やはりここはオレンジがいい。
いい大人たちの、瑞々しくも甘酸っぱいプラトニックな色恋が、サガンの小説に出てくるようなオレンジの爽やかさをさらっていく。
亡き父への哀悼小説
一見すると先生と奈々津さんの恋愛がメインなのかと思われるが、よく読めば、この小説は恋愛小説などではなく、先生の亡き父への哀悼小説なのだと気づく。
本作は、8編の連作短編小説を成している。
その構成はなにげない風を呈しているが、キーとなるのは第2章の「エスプレーソ」だ。
この章は先生の父親のことをメインに書かれている。かつて手品師であったこと、劇場の地下にコーヒースタンドがあって、父はいつも砂糖無しのエスプレーソを頼んでいたこと、云々。
物語の構成において、どの小説もおおよそ第2章目というのは、その小説を書くに当たっての“理由”というものが展開される。
この小説は、つむじ風食堂にまつわる物語を書くに当たっての理由が、父親の喪失だったというわけだ。
それがわかるように、小説の最後は、父親がかつて手品の仕事で使っていた袖口が、ぱっと消えてしまう。種も仕掛けもございません。それはまるで月舟町がすべて夢の中の出来事であったかのように、あざやかに消滅してしまうのだ。
デザインのプロが手がけるアートな装幀
本作家である吉田篤弘は、少し異色の作家さんだ。
26作品の小説を発表しているかたわら、パートナーの吉田浩美とともに、クラフト・エヴィング商會なる名義で、1000冊を超える著作とデザインの仕事を行っている。主には書籍、雑誌等の装幀デザインを担当しており、本作の装幀もクラフト・エヴィング商會が手がけたもの。
本作もそうだけれど、クラフト・エヴィング商會が手がけた装幀は、どれもシンプルだけどどこか目に付く、本当にお洒落な作品に仕上がっていると思う。
外国の絵はがきのような『モナ・リザの背中』、白地にタッチの細いイラストを余白をメインに配してみたり(『台所のラジオ』)、リトグラフで描いた赤いケトルが可愛かったり(『小さな男*静かな声』)と、どれを取っても装幀それ自体が立派なアート作品に仕上がっていて、所有感をくすぶられてしまう。
本作にぴったりの一曲を添えて
“悲しい”という言葉なんて一言も書かれていないのだけど、だからこそ余計にその想いが伝わってきて、爽やかな感動をさらうこの小説。
つむじ風食堂とその周辺を流れるやさしい時間は、まさにスピッツの世界観そのものだ。
筆者も大好きなアーティストだし、名曲はたくさんあるけれど、その中でも本作には『涙がキラリ☆』を押したい。
君の記憶の片隅に居座ることを決めた俺。
星を待っている二人は、二度と戻らないこの時を焼きつけるという歌詞。
静かな夜に灯るつむじ風食堂の明かりと、瞬く星、父親の喪失を感じて、せつなさにキュッとなる。そうしてスピッツを聴き流せば、草野マサムネの高音に、自ずと涙がそそられるのだ。
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