鰐の母親の身にもなって考えられる、自分にこだわらない人の心の自由さ
人より鰐を思いやるのはいかれているのか
定は、守口に父親が死んだときのことを聞かれて、別に苦でもなさそうに語ってやり、その原因となった鰐が、子持ちの母親だったと知った守口に、撃たれた鰐がかわいそうだと、言われても、気分を害さないで同意をする。同席していた編集者は、聞くに耐えられず席を立ってしまうほど、傍からすると、人の親より鰐の母親に同情する守口もそうだが、平然としている定が正気だとは思えないのだろう。が、自分は別に、定の頭がいかれているようには思えなかった。むしろ、親の死でも、そういうふうに受けとめられたらいいと、思った。
なんて、考える自分も中々変わっているのかもしれない。たとえば、歴史ものの戦争の映画を観ているときなど、人同士が斬りあうのは平気でも、馬などが傷つけられるのは直視できず「馬がかわいそう」と手で顔を覆うことが多い。そんなとき、たいてい、傍にいる人に「いや、人間でしょ」と呆れられて、その通りだと思いつつ、なにかがひっかかる。よく考えてみると、やはりかわいそうなのは、人間より馬ではいかと。人間は、まあ、好き好んでというでなくても、望んで戦争しているといってよく、不本意に連れてこられてきた人にしたって、盾で身を守ることができるし、剣で敵を跳ねかえして、逃げきれる可能性がある。でも馬は、人間以上に必要性もなければ、もちろん望んでもないのに、これまた人間以上に逃げることも抗うことも許されずに戦場にひっぱりだされる。それに人間に噛みついたり、蹴ったり、積極的に攻撃しないにも関わらず、剣で斬りつけられたり槍で突かれたり、対して守る術もないのだから、たまったものではない。
人間に置き換えてみれば、血潮飛び散る戦場に、無装備の上、裸体でおろおろしているようなものだ。おまけに怪我をしても、人間のように治してもらえない。そんなことをされて、かわいそうと思わないほうがおかしい。それでも、これだけ言っても、分かってもらえないかもしれない。たぶん、人間の命は動物より重く価値があると、疑わないからだろう。人間は、他の動物とは別格で、尊ばれるべきなのだと。そう考える根拠は何なのか。頭がいいから?心があるから?いや、本当は根拠がない。そう思いたいだけなのだと思う。人間が特別だと思うことで、人間である自分も特別だと思えるから。
顔でなく中身を見ろと訴える人の矛盾
誰だって、自分が特別な人間だと思いたがるものだと思う。特別な人間でないと、生まれてきた意味も、生きている意味をないように思えるからだ。だから、べつにお前は特別な人間ではないと、いてもいなくてもいい存在だと、思わされることには耐えられない。たとえば浮気とか。定の後輩の小暮しずくも、顔はいいのに浮気をされる。容姿が優れているだけでは特別にはなれないらしい。たしかに男性は顔のいい女性に弱いし甘いが、他に顔のいい女性も、自分より優れた人だっていくらでもいる。なので、自分の特別さを外見でなく、中身に見いだそうとする。男たちが自分を大事にしないのは、顔だけにしか興味がなく、中身なんかどうでもいいと、きちんと見ようとしないからだ。見てくれたら、恋人は首っ丈になって、浮気なんか決してしないし、他の男だって、仕事のできる女として自分を尊敬するはずだと。ただ、そう思うのなら、わざと見た目をみすぼらくして、人の目を引かないようにして、仕事ぶりや態度を見てもらえば、話は早い。でも小暮しずくは、しない。定も言っている。「私のような顔になりたいですか」と。肯かない小暮しずくは、結局かわいい自分の顔が好きなのだ。単純な男が目尻を下げるような、かわいい顔をした女のうちの一人でしかないと、小暮しずくが勝手に思いこんでいるだけで、そんな一括りにした中で、誰一人として同じ顔をした人はいない。優劣を抜きに考えて、誰とも顔が違うということは、それだけで十分特別といえるわけで、欲しい特別が顔にあるのなら、手ばなしたくないし、好きになるのは当然だと思う。
内面ににそ、これが自分というものがあるのか怪しい
そんな顔だけなんて、と思うかもしれないが、はっきりと形作られている顔に比べたら、心とか精神とかというものは曖昧で、自分でも自分の気持ちが分からなくなることも、あるくらいだから、これが確固たる自分だと、内面で証明するのは難しい。それに相手も、見極めることができない。いい例が、盲目の武智次郎の、定と小暮しずくの見方だ。一般的にこの二人を比べて、容姿の優劣をつけるのなら、小暮しずくが勝るはずが、武智次郎は定のことを「美人」だと言って、小暮しずくには興味を示さない。目が見えないせいとはいえ、視覚に頼らないと、これだけ見方が変わるほど、人の内面は当てにならないとも、いえる。
ただ、定は強烈に個性的だから、内面にぶれがないように思う。それでも「美人で優しい」と思われるのは、自分はこういう人間だと、定義していないからだろう。というか、内面は顔と違って、独自性なんてものは、そもそもないのかもしれない。と、思うのは、顔は、目や鼻、口などのパーツを動かしたくても動かせないのに対し、人が思考する場合、ときに相手の立場になって想像したり、その表情を見て共感したりして、自分から心が切りはなされ、他人に乗りうつるようなことが、起こりやすいからだ。そんなに心がふらふらしていたら、そりゃあ、これが自分独自の考えや思いだと、胸を張ることはできない。できなくてもいいと思う。自分一人が考え思えることなど、たかが知れている。たかが知れている思考を、独自性だと思い守ろうとして、人の数だけあるそれらを知ろうとしなければ、結局つまらない人間になるし、自分だってつまらないだろうに。肉体の殻に閉じこめられず、誰にでも、なににでもなれるから、楽しいのだ。それこそ、鰐の母親になった自分を想像して、待っている子供を思い、心を痛めることだってできるわけで。
鰐の餌にならない人間はいないという真理
人が特別なのは、形の違う肉体を持っていることで、内面は曖昧模糊としている点で、皆同じなのかもしれない。でも、四六時中自分で自分の顔を見ていられないから、別個の存在だと認識しにくく、だから内面の違いを主張しようとする。それこそ「ふくわらい」をしているような状態なのだろう。見えない自分の顔を、必死に形作ろうとするも、目隠しをされているようで、内面の闇に手を突っこみ、やたらとかき回すだけで、手ごたえはない。手ごたえがないと、自分が空っぽの人間のように思えて、虚しくなる。が、視点を変えると、鰐にとって人間は、誰の違いもなく「餌」だ。顔の違いさえ関係なくて、等しい存在。いくら自分が特別な人間だと思っていても、鰐にすれば肉としての価値しかなく、その体に肉がつまっていることを望みはするものを、内面なんかどうでもいい。どうでもいいと思われるものを、特別だと言いたがることこそ、虚しいし恥ずかしいと思う。
それに鰐にとって「餌」としか思われないことを、認めたほうが楽なように思う。そうしたら、母親の鰐が生きていたとして、子供を育てあげたなら、父親が死んだことに意味があったと思え、一応気持ちにおさまりがつく。一方、餌にされたことを侮辱的だと怒り、鰐を憎み、助けられなかった周りの人々を恨んだって、その恨みつらみの行き場はどこにもない。おまけに、鰐を虐殺したり、現地の人を訴えて苦しめたりなどして、きっとろくなことをしない。
人を見た目で判断するなと、よく言われるが、中身で判断するのは、もっと意味がないことなのかもしれない。武智次郎が定を「美人」と見なしたのは、内面を見抜いてでなく、どうせ見えないなら、自分の都合のいいように判断してしまえと、開き直っているからだ。これは、人の内面が視覚的に見えない、普通の人にもいえる。ただ、勝手に判断してしまえと、思っている自覚がなく、その人の個性や性格といったその人らしいものが、もともとあるものと見なしてしまう。人にあるなら、自分にもあると思う。だから、ないと絶望するが、もし内面が覗けたとして、そこは真っ暗闇でなにもなかったりするのではないかと思う。
この世に特別な人間がいるとしたら、そうでない自分が嫌になるだろう。自分なんか鰐の餌にしかならないと思えば、もっと惨めになりそうだが、意外にそうでもない。どんなに偉い人でも、人格者として崇められる人でも、誰もが所詮鰐にとっては餌なのだから、同じ餌として、比べて恥じることもなくなる。個性が求められる世の中。とはいえ、自分はべつに特別でなく、他の人と代わり映えはない人間だと認めたほうが、人を妬んだり自己嫌悪したり、案外回り道せずに生きていけるのかもしれない。
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