導かれるようにストーリーを体験できる「木洩れ日に泳ぐ魚」の魅力
一風変わった恋愛小説
この作品を読み終わってまず思ったのが、「ああ、これはやっぱり恋愛モノのお話だったんだ」ということでした。
正直なところ、ヒロの最大関心事はいつだって自分自身……というようなところがありましたが、アキの感じていたつらさや苦しさというものは、間違いなく恋愛のそれだったと言えるでしょう。
しかし同時に、読了済みの方ならばこの作品を「恋愛モノ」の一言では表現しきれないということを、実感していると思います。
実はわたし、あらすじ紹介などに”男女の話”と書かれているのを見て、「恋愛モノかあ……」と読むのを後回しにしていたのです。
けれど実際は、どうしてもっとはやく読まなかったんだ!と悔しく思ってしまうほど、様々なテイストが盛り込まれた作者の技の光る良作でした。
では、いったいどんな技が効いているのでしょうか。
絶妙なタイミングで繰り返される“引き”
恩田陸作品の魅力のひとつに、「続きが気になって仕方がない」というものがあると思います。
作者自身もエッセイで語っていることですが、続きに期待させるこの“引き”を、執筆の際はとても意識しているそうです。
この「木洩れ日に泳ぐ魚」でも、その“引き”は冒頭から効力を発揮します。
男女の……それも、既にほとんど終わっていると言っても過言ではない引っ越し前夜の二人が、しんみりと最後の夜を過ごす話だと思って読み始めた読者にとって、冒頭で示される「男を殺したのは誰か」という謎は、不意打ち以外の何物でもありません。
「どういうこと?」と興味をそそられ、どんどん話に引き込まれていきます。
それは同時に、わたしのような「恋愛モノはちょっと……」というような読者にとっても願ってもない展開なのでした。
また、ただ単に“引き”が散りばめられているわけではなく、
・謎解きのヒントになるような描写がきちんと用意されていること
・そのヒントが比較的わかりやすいこと
などから、自然とあれこれ推理しながら読む感覚が加わって、ページを捲る手が止まりません。
そして“引き”のあとのストーリー展開で、推理の答え合わせができるというような仕組みになっています。
このように読み進めると、「ひょっとしてこの二人の関係って……」「その男、実は二人の……」などといった推察が、その都度「やっぱりそうだった!」「思ったとおり!」とすっきり消化できるので、まるで名探偵にでもなったような感覚が味わえる楽しさがあるのです。
「冒頭から緻密に計算され散りばめられた伏線をラストで見事に回収する大どんでん返しモノ」というようなスタイルの作品こそ正義、というような風潮が感じられる昨今でありますが。
このように、規模は大きくなくても、要所要所でしっかりスッキリさせてくれる小説というのも、楽しいものなのです。
視点の変わる一人称小説
この作品は男女の……つまりアキとヒロの視点が交互に入れ替わる、一人称小説です。
作者はあるエッセイの中で「一人称は苦手」だと述べており、どうしても一人称で書かなければならないときは、「章ごとに視点を入れ替える」ようにするのだそうです。
それってまさにこの、「木洩れ日に泳ぐ魚」そのものですよね。
一人称小説の難しいポイントとしては、
・その人物がいない空間や知り得ないことに関しては描写できない
・その人物の心情に共感あるいは順応できなければ作品を楽しめない危険性がある
ということなどが挙げられると思います。
ライトノベルや一部のエンタメ小説などでは、章が変わると一人称が三人称になったり、かと思えば再び三人称から一人称に戻ったりするような手法も見られるようになってきているそうですが、これも「全編を通して一人称で仕上げる」ことの難しさの現れなのではないでしょうか。
しかしこの作品では、そのような一人称小説のデメリットを、視点を入れ替えることで見事に解決しています。
まずは「描写できる範囲」について考えてみましょう。
視点を担当しているのはアキとヒロですが、先ほども述べたとおり、それぞれの視点では彼らが自分で見聞きしたり体験したことについてしか描写できません。
そのことは、「彼ら自身」についても同様です。
一人称視点の小説というものは、もともと読者が視点主に一体化しやすいものです。
したがって、読者はアキでもありヒロでもあるということになります。
さっきまでアキのつもりでいたのに、気づいたらヒロになっていて、さっきまでの自分を見ている。
この作品を読んでいると、アキって……自分ってそんな風に見えてたんだなあ、というような、不思議な感覚に陥ることがあります。
ヒロから見るアキはもちろんアキが自分で思っている人物像そのものであるはずもなく、その逆もまたしかり。
そのような視点の持つおもしろさをまず冒頭でドカンと示してくれたのが、「お互いに相手が男を殺したと疑っている」という描写なのです。
それぞれの視点になっている読者としては、おそらくどちらも殺してないだろう、ということが早々にわかってしまう。
だとしたらなぜ、男は死んだのか?
男の死の真相とは?
そうなのです……やはり冒頭で、読者は既にその心をがっしりと掴まれてしまっているのです。
では次に、「心情への共感」について考えてみます。
一人称小説において重要なことのひとつに、いかに読者の共感を得られるか、というものがあると思います。
共感できるということはつまり、そこには多くの人が共有できる怒り・喜び・悲しみ・葛藤・不安などが描かれているということになります。
だからこそ、読者の胸に「響く」ことができるのでしょう。
ですが、前述したとおり「心情への共感」を得るのはなかなか難しいのです。
なぜなら、何をどう感じるかということは、人それぞれのものだから。
それまで楽しく読んでいたとしても、「え、わたしこのくらいのことで怒らないけどなあ」と思ってしまうと、一気に現実に引き戻されてしまうというもの。
もしこれが、三人称視点だとしたら、ちっとも問題はないのです。
「ああ、怒りっぽいキャラクターなのね」で、済むのですから。
しかし、読者と視点主との同調が魅力である一人称では、やはりこのことは大きな欠点となってしまうのです。
ですが作者は、このポイントも「視点の切り替え」によってうまく解決しています。
読者はアキになったりヒロになったりするわけですが、その切り替わりのタイミングのときに一瞬、同調がリセットされるのです。
「わたしはアキでもヒロでもなく、小説を読んでる一読者なのよ」という認識が、頭の奥で首をもたげる感覚。
それこそが、読者を視点主と完全に一体化させない仕掛けであり、たとえ心情に共感しきれなくても楽しめる一人称小説の秘密なのではないでしょうか。
ただ、本来、共感や同調が魅力である一人称小説において、あえてそれを切り離すような仕掛けは、一見すると本末転倒にも思えます。
しかしその矛盾をも、ストーリーの構成や演出ですっかりカバーしてしまっているのです。
アキとヒロが現在分かっていないことは、読者も同じく知らないこと。
それについて、学生時代に戻ったり、子どもの頃にもどったりと過去の記憶を行ったり来たりしながら、思い出していくという展開。
二人の「思い出す」という行為は、そのまま読者が「追体験」するということとイコールです。
つまり視点主と読者は、同時に同じ事柄を享受するのです。
このようにして、視点主と付かず離れずの距離を保ちながら、導かれるようにストーリーを体験できるのが、この「木洩れ日に泳ぐ魚」という小説の魅力なのだとわたしは思います。
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